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[小説] 記し #10

「借りてきた猫でしたっけ?」
今日、職員室で沖田にかけた言葉だ。
「他は何か思いました?よそよそしいとか、会話のテンポが悪い、とか」
淡々と話す沖田に圧倒される。怖い、とさえ思った。確かに、よそよそしさは感じていた。昔ならば、もう一歩踏み込んできただろうというタイミングで踏み込んでは来ないし、軽口にしたって、高校の頃の鋭さも軽快さもない。だが、沖田が社会人になった今、久しぶりに会えばそんなものだろうというレベルのもので、特段、会話に不自然な点があったわけでもない。ただ、本人に、そうと思っていたことを指摘されるのと不気味さが残る。

 俺は沖田を真正面から見据える。沖田は、口に微笑みを携えてこちらを見ている。俺は、名前を呼んだ。
「―――みや」
俺の呼びかけに、彼女はなお一層、さみしそうに微笑むだけだった。彼女の口がかすかに動いたかと思うと、彼女は 俺から目を反らして、ふっと息を吐いた。
「授業の最後も、私のことを呼んだんですね」
沖田に感じていた違和感。今日、彼女は俺の過去の問いかけに何一つ答えていない。彼女の口から語られる過去を連想させる思わせぶりな言葉は間違いなく事実で、それが目の前の彼女が沖田であることを証明する。だけど、俺の過去の問いかけに明確な回答は返っては来ない。沖田との会話のやり取りは、俺の想像するものと、どこか像がぶれていて、テンポが遅れているように感じる。
 目の前の彼女は、いったい誰なのだろう。沖田都であることは間違いないのに、俺の知る沖田ではない。俺が混乱している中、彼女は言葉を続けた。
「そんな顔、しないでください。佐伯さんが私のことを、みやと呼んでいたことも、テストで褒めてくれたことも、受験前日に励ましてくれたことも、冬の日の渡り廊下で愚痴をこぼしたことも知っています。たぶん、高校の頃にあなたと会話した内容を言えと言われれば、あなたより詳しく話すことだってできる」
佐伯さん、か。
「妙な言い回しをするんだな」
俺が言える言葉は、それだけだった。俺の言葉に、目の前の彼女は唇の端を吊り上げた。
「ええ、本当に」
唇からゆっくりと発せられた言葉は、妙な妖しさを感じさせる。
「妙なことしてるなって思いますよ」
俺の知る沖田とは違う、大人のように笑う女性は、くるりと振り返って、講演中に使用した板書を消し始めた。きれいな字だ。昔から、沖田の字はきれいだった。黒板を消しながら、彼女は話を続けた。声に先ほどの妖しさはなく、それは聞きなれた沖田の声だった。
「私、高校の頃の記憶がほとんどないんです」
前置きも情緒も何もない、突然の告白に、俺は息をするのも忘れて、彼女のことを見る。彼女は振り向くこともなく、板書を消している。静かな時間が続く。
 やがて、黒板をきれいに消し終えた彼女は、俺に向き直って、頭を下げた。きれいなお辞儀は彼女の髪を揺らす。
「すみませんでした。常識で考えれば、出会ったときにお話しするべきでした」
そして、ゆっくりと頭を上げる。突然、正された佇まいに戸惑う俺を見て、彼女は、一方的に話し続けることを決めたようだ。近くの席に座り、「大したお話でもないんですけど」と礼儀正しく前を向いて語り出す。
 懐かしむ風でもなくただ小説の一節を口にするような淡々とした語り口調で、彼女は自身の過去を口にする。
「大学に入ってすぐの夏休みに事故に遭いました」
俺は彼女の目の前の机に浅く腰掛け、机に体重を預ける。
「話は、それだけ。目が覚めたときには、直前二年ほどの記憶のほとんどが失われていました」
目を細めた彼女は、目の前にどんな景色を見ているのだろうか。
「軽い記憶障害で、すぐに記憶は戻ると言われていました。だけど、戻らないまま、今に至ります」
と彼女は力なく笑った。
「本当は、話をお受けするつもりもなかったんです。でも、どうしても、高校の頃の自分を知りたかった」
どうして、出会ったときに教えてくれなかったのだろうか。伝えてくれたなら、それなりに気を使うこともできたのに。
「どうして、」
そこまで発した俺の言葉を彼女は遮った。
「確かめたいことがあったんです。佐伯さんには、今日が終わったらお伝えするつもりでした。でも、口をつぐむのも限界だな、と思って、ここらへんで、種明かしを」
一息で、そう言って、彼女は、もう一度、頭を下げた。
「本当にごめんなさい、まだ混乱されてます、よね?」
と、俺の表情を窺う彼女は、完全に俺の知らない女性だった。沖田に尊敬語なんて使われた試しがない。失礼だが、むず痒い。今まで、少しでも沖田らしく、無理をして会話していたのだろうか。大学入学前の二年間の記憶。それは、俺と沖田の共有する時間のほとんど全てで、それがないとするならば、彼女は東京駅で会ったときから、ほとんど知らない男性を相手に会話を進めていたということだ。
 かろうじて高校教諭だということは分かっていても、ほとんど知らない男相手にのこのことついて会いに行くことは怖くはなかったのだろうか。俺の前で見せた沖田都らしさは、一体どこから来るのだろう。
 だけど、疑問は何一つ口を突いて出てくることはなくて、ああ、混乱しているんだな、と思った。彼女の言葉の選び方はいつも正確だった。
 なおも言葉が出てこない俺に向けて、彼女は言った。
「あの、図々しいお願いだと思うんですけど、」
彼女は、おずおずと俺に申し出る。
「校内を案内していただけませんか?」
目の前の彼女は、本当に俺の知る沖田ではないのだと思った。断れるはずもなく、俺は首を縦に振る。
「ああ、喜んで」
俺がそう、答えると、彼女は安心したように笑った。

「どこから回る?」
俺は彼女に尋ねる。彼女は迷う風でもなく答えた。
「テニスコート、ですかね。」
目の前の彼女は、部活での出来事をどこまで覚えているのだろうか。

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