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[小説] 記し #6

 もう着く、と言った彼の言葉通り、最後の会話から数分で学校に到着した。職員用の玄関で待っていると来客用のスリッパを持ってきてくれる。彼の案内に従って、職員室に入る。教員の数はまばらで、体育館や校庭からは、運動部が活動しているのであろう声が聞こえてくる。上の階からは、吹奏楽部の演奏も聞こえる。世間は夏休みだ。

 「ここ、座ってて。」と言われるがままに、案内された椅子に腰かける。生徒との相談スペースのようだ。パーテーション等の仕切りはなく、長い机を挟んで椅子が数個並んでいる。待っていると、グラスを差し出された。グラスには大量の氷にコーヒーが注がれている。お客様なんだなと思いながら、ありがたくグラスを受け取る。

「大丈夫か?」

「え?」

唐突な問いかけに、危うくグラスを取り落としそうになった。

「気持ち悪くない?」

と続けて聞かれて、車酔いしていたことになっていたことに気が付く。正直に言えば、私は車に酔う性質ではない。それどころか、船酔いすら経験したことがない。高校の頃の話が続くのが気まずくて、難しい顔をしていたら彼が勘違いしたので話を合わせただけだ。

「平気です。お気遣いありがとうございます。」

それにしても、彼は車酔いした人間にアイスコーヒーを出すのか。差し出された良く冷えたグラスに浮かぶ氷を見ながら、そう思った。

 特に言葉を交わすでもなく、ずっとこちらに向けられる視線を不思議に思って、彼の顔を見上げると真顔でまじまじと私を見つめている。なんだろうと思って、小さく首を傾げた時、彼はひどい感想を述べた。

「まるで借りてきた猫だな。」

当たり前だ。職員室にいるのは、初対面の先生方ばかりなのだから礼儀を欠く行動をとれるはずもない。

「まあ、実際そうですから。」

彼に向けてにっこりと笑ってみせた。彼は眉間に皺を寄せる。そして「大人しい沖田は調子が狂う」と言い残し、くるりと、その場を後にする。見知らぬ人ばかりのところに置いていかないでほしい、というのが正直な感想だが、何も言わなかったところを見るとすぐ戻るつもりなのだろう。

 見知らぬ場所に取り残された私は職員室を見渡す。職員室に入って右手には、各大学の入試過去問である赤本がずらりと並んでいる。かつて私が受験した大学の赤本も変わらず並んでいるのだろう。

 私は、席を立って本棚に近づく。赤本を手に取って、ぱらぱらとページをめくる。

 しばらくすると、後ろから声を掛けられた。

「なんだ、英語じゃないのか。まだ解けそう?」

突然かけられた声に、肩が跳ねた。彼が苦笑する。

「お前、さっきから緊張しすぎ。誰も取って食わないから、落ち着け。」

恥ずかしくて顔が熱を帯びる。改めて、席に座り、淹れてもらったアイスコーヒーを口にしながら気持ちを落ち着ける。彼はノートパソコンを持ってきていた。この後の段取りを打ち合わせるようだ。

「話したと思うけど、俺、この後、一時間だけ授業なんだよね。どうする?ここにいる?図書室とかも空いてるはずだけど。」

今日は受験生に向けた補講日らしい。補講日には、補講の後にクラスで希望者を募って、将来のキャリアを考える会が開かれる。連日、卒業生や教師たちの教え子が入れ替わり立ち代わり話をしていくのだそうだ。今日は彼の主催の日で、私が呼ばれた。補講は朝から行われ、最終が午後一時から二時までの授業。私が生徒たちに向けて話すのは、そのあとのようだ。

「無理を承知で、お願いしてもいいですか。」

私はダメ元で、授業を見学させてほしいとお願いしてみる。彼は、腕を組んで考えるような仕草を見せた。

「学年主任に聞いてくる。だめでも文句言うなよ。あと、生徒たちの反応見てダメそうだったら追い出すから。」

彼が学年主任の元へ伺いを立てに行くと言うので、私も挨拶がてら同行することにした。同行と言っても、同じ職員室内にいるのだから、目と鼻の先である。

「今、よろしいですか。」

彼が丁寧な言葉遣いで学年主任の教諭に伺いを立てる。

「今日、講演をしてくれる沖田です。」

彼が、私のことを紹介したので、隣で「よろしくお願いします。」と、ぺこりと頭を下げる。

「お忙しいところありがとうございます。今日はよろしくお願いします。」

物腰の柔らかそうな中年の男性だった。これならば、反対されることもないだろう。

 思ったとおり、学年主任からの許可は、すんなりと下りた。「生徒さんの様子を見てから、生徒さんのためになる話をしたいんです」、と目を輝かせて訴えたのがよかったのかもしれない。隣にいた英語教諭が、にやにやしていたせいで説得力は半減した気がするが。話が終わった後、何か言いたげな彼には、あえて突っ込まなかった。

「立ってる?それとも、席準備しようか?」

授業が始まる五分ほど前、彼は私に尋ねた。

「後ろで座ってた方が、気が散らないんじゃないですか?」

と提案した私に、そうかもな、と同意した彼は、席を準備してくれた。

 いつもより早い担当教諭の入室に、教室は一瞬、静かになった。興味深そうに、生徒たちが私たちの方を、というより、私のことをちらちらと盗み見る。少し気まずい。

 そんな視線に慣れているのか、彼はものともせず、机を運び入れた彼は、「あと、これ」と筆箱を渡してくる。勢いでうっかり受け取ってしまった。その意味を理解して、私は主張する。

「授業受ける気はありませんよ。あくまで、見学で。」

かなり強めに訴えたつもりだったが、

「ぼーっとしてるやつがいると邪魔だから、俺の。」

とすごまれ、取り付く島もなかった。そうして、授業の開始を知らせるチャイムが鳴った。

 「今日の授業ですが、この後の会で講演をしてくれる沖田さんが授業を見学します。邪魔になったら追い出すので、遠慮なく言ってください。じゃあ、授業を始めます。」

そうして始まった彼の授業。教卓から飛んでくるプレッシャーは生半可なものではなかった。生徒たちも、真剣な表情を見せている。教室の前で小さくまとまった授業をしたくないという彼は、クラスの後ろの席をよく当てる。授業中も、黒板に向けて話すことはあまりなく、いつ質問が飛んでくるか予測ができないので、気を抜けない。真剣に授業を受ける生徒たちも、楽しそうに授業を展開する彼も見ていると微笑ましい。授業を受ける生徒たちを見ながら考える。私も十年前は、同じような顔をしていたのだろうか。

 彼がプリントを配る。補講はこのプリントを解けば終わりのようだ。プリントを手にした生徒から順に問題を解き始める。私の目の前に座っている生徒が、戸惑うように彼の方を見た。どうやらプリントが多かったようだ。微妙に空間を空けて後ろに座る私に、渡すべきか否かを迷っている。黒板の前にいる彼は全く気が付いていない。私よりも彼の方が、よほど生徒の邪魔をしている気がする。私は、困っている生徒に向けて声を掛けた。「それ、もらいますね。ありがとう。」と。もちろん、にっこりと微笑んだ。ぺこりと頭を下げ、目の前の生徒はプリントを差し出してくる。この年になると十代の少年少女と話す機会なんて皆無だ。どのようなトーンで話せばいいのか、さっぱり分からない。そう思うと教師というのは、すごい仕事だと思う。

 英語が羅列された紙には目もくれず、改めて教室を見渡す。塗りたてのワックスのにおい。静まり返った教室にはクーラーの音と、彼が板書する音が響いている。彼は生徒が問題を解いている間に、解説用の板書を準備しているようだ。彼の板書は力強い。黒板はみるみるうちに文字で埋め尽くされる。緑のベースに白と黄色と赤色のコントラストが浮かび上がる。何本かチョークが折れた。あの黒板を消すのは大変そうだ。クーラーの効いた教室で、汗をかきながら真剣に黒板を見つめる彼の目は、今日見た中で一番輝いて見える。不意に、彼が振り向いた。見つめていたのに気付かれたのかと思い、どきりとする。でも、彼は、こちらを一瞥することもなく、手元の辞書を引き寄せただけだ。チョークで汚れた手で辞書を捲る。

しばらく、せわしなく聞こえていた音は、カタン、とチョークを置く音が聞こえて、途切れた。解説を書き終えた彼は、教卓の椅子に座って、解説用の資料を確認し始める。前髪を触りながら、あらかじめ引いたマーキングの個所を舐めるように確認する。そんな彼を横目に、私は窓の外に目をやった。相変わらず、日差しが強い。外では野球部が練習をしている。彼らの声は、静かな教室によく響く。グランドの砂ぼこりが舞う。

 ずいぶん長い間、太陽の下に出ていないような気がした。

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