[小説] 記し #8
二〇X二年十二月二十日
昨日の放課後、先生に会った。さようならって挨拶して前を通り過ぎたら、歩く方向が一緒だったみたいで先生から話しかけてくれた。話しかけてくれたというより、ほとんど先生の独白。「なんであんなに問題解くの遅いんだろうな、問題解くとき何考えてるんだろう」って。なんて返すべきか分からなくて、沈黙してた私。「さすがに見下しすぎか、教員としてダメですね」って言われたとこで「そうですね」って頷いたけど、それもどうなの。
先生、悩んでるのかな。先生は生徒のことを見下してるんじゃなくて、同じ側に立ちたいだけだと思う。だから、また二人で話せたらフォローしたいなって。でもそれって厚かましいのかな。「教員としてダメですね」って言われたとき嬉しかった。教員じゃない先生が、あの場では確かにいたから。悩んでるなら力になりたい、なんておこがましいよね。
ノートの一節を思い出した。何か言いたげに、私の方を振り返った彼に、彼女の言葉を投げかけようかと悩んだが辞めた。私の口から、それを語ることを彼女は望んではいないだろう。
彼と私は一度、職員室に立ち寄った。「準備するから座って待ってて」と言われたので、赤本のずらりと並んだ本棚の前に座る。すると間もなく、職員室の扉ががらりと開いた。
「失礼します」
冷気が廊下に漏れていく。反対に、生暖かい空気が職員室に流れ込む。数冊の本を持った女生徒が、私の方を一瞥した。その視線は冷ややかなもののように思えた。
彼女は、私からすぐに視線を外すと、目的の教師を探しだした。夏休みに補講を受けて、さらに、わざわざ職員室へ教師に質問に来るなんて、真面目だなと思って眺めていたら、お目当ての教師というのは私の方に向かってくる彼だったようだ。彼は、彼女の視線に気が付き歩みを止めた。彼から私にアイコンタクトが送られる。私は、小さくうなずいた。
「どうした?」
彼の呼びかけに、女生徒は用件を話し出す。少し距離があるので、何を話しているのかは分からない。教材をのぞき込んでいるようだから、授業の質問か何かだろう。楽しそうだな、と思う。冗談を交えて解説しているのか、彼も女生徒も笑っている。
二〇X二年十月九日
今日、真子と職員室行ったんだ。きっと先生は、真子の方がお気に入り。少し嫉妬もしてる。だけど、あの人とその子を端から見てると、ただの教師と生徒なんだ。当たり前だよね。でも、じゃあ、私は?私は、それ以上に普通なんだって思った。なんか辛いし、悲しい。だけど先生の笑ってるとこ見るのはすごく幸せなの。
解説は数分で終わった。彼が女生徒に数冊のノートを渡している。可哀そうに、質問をしに来ただけで雑用を押し付けられるなんて、と思ったが、女生徒は嬉しそうに彼にぺこりと礼儀正しく頭を下げ、職員室を後にした。出ていくときに、横顔をちらりと盗み見られた気がする。
女生徒から解放された彼は、荷物を抱えて私の方へやって来た。プロジェクターとノートパソコン、あとはアンケート用紙を準備して、会場となる視聴覚室に向かう。視聴覚室に行くのにプロジェクターが必要になる理由はよく分からないが、聞くようなことでもないので黙っておいた。荷物を持ちましょうかと打診したら、アンケート用紙を渡された。明らかに荷物の配分が偏っているが、気を使ってもらっているのだろうし、大人しくアンケート用紙を運ぶことにする。
職員室を出て左に曲がると、すぐに階段が見える。彼が、階段の一段目に足を掛ける。そこで、ふと思ったことを口にした。
「特別教室って鍵かかってないんですか?」
彼は、小さく、「あ」と声を漏らした。「流石ですね」という、よく分からない賛辞を呈して、彼はUターンした。「ちょっと待って」と言われたが、どう考えても、両の手がほぼ空いている私が鍵を持った方がいい。鍵をとりに職員室に戻ろうとする彼の後ろに続く。
鍵の保管庫は彼の机のすぐ後ろにあった。机の上には、先ほどの授業のプリントとひざ掛けが無造作に置かれている。せっかくきれいに畳んだのに台無しである。彼が保管庫を開錠する間、後ろから見ているのもはばかれたので、逆を向いて彼の机を眺める。
机の上には古びたテニスボールが置かれていた。マジックで何か書かれているようだが、文字はつぶれて読めない。
「これ、何ですか?」
人の机の上にあるものを無断で触るのも憚られたので、私は、彼に尋ねる。問いかけられた彼は、こちらを振り返った。私が指差すものを目にした瞬間、彼の顔から表情が失せた。
何か、触れてはいけないものだっただろうか。一時期、テニス部の副顧問をしていたからといってテニスに愛着があるわけでもなさそうな彼が、野球ボールでも他の何でもなく、テニスボールをデスクに飾っている理由が気になっただけなのだが。
彼は、私の目を見据えて、重々しく口を開いた。
「覚えてないのか?」
私の目は一瞬泳いだと思う。その言葉を聞いて、失言だったと気が付いた。一度、視線を反らした以上、もう一度、彼を見据えるのは不自然だ。私は、そのまま、視線をボールに移動させ、古びたボールを手に取った。そして、かすれた文字を確認する。
「ああ、あの時の」
私は、それだけ言って、ボールをもとの位置に戻す。
「行きましょうか、遅れちゃいますね」
私は、彼ににっこりと微笑んだ。
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