[小説] 記し #2
七月も終盤に差し掛かった土曜日の朝、スマホが鳴動した。画面には、見覚えのない番号が表示されている。どこからの電話だろうか。見覚えのない番号からの着信を取る気はない。個人の電話番号のようだから、知り合いかもしれない。誰かに携帯の番号を伝えていただろうか。画面に表示された番号を見ながら考える。どことなく自分の携帯番号に似ている。構成される番号も、並び順も、三桁を除いて一致している。外れた三桁も番号が一つずつ前後なだけだ。珍しいこともあるな、と思いながら電話が鳴りやむのを待つ。まだ、電話は鳴りやまない。留守電への移行は何秒に設定していたのだったか。二十秒は経過した気がする。三十秒に設定しているのだろうか。いざ、待ってみると三十秒というものは長い。十五秒くらいに変えておこう、そう思ったところで、留守電が記録され始めた。
「私、佐伯と申しますが、」
突然、電話から聞こえた重低音に、心臓が跳ねた。
「沖田さんでお間違いないでしょうか。」
体の中で激しく脈打つ音とは反対に、落ち着いた、余所行きの作った声が耳に届く。
「なんてな。暇だったら折り返して。今日の午前中は出れる。だめなら、夕方にでもかけなおすよ。」
留守電に記録された音声はそれだけだった。彼の声が聞こえなくなってから数秒して、スマホの画面が暗くなった。私は深く息を吐く。彼と再会してから半年は経過している。今となっては過去のことで、会ったのがいつだったのか正確な日も思い出せないくらいだ。どうして思い出したように電話を寄越したのだろうか。
考えを巡らせようと思って、やめた。どうせ、思い出したから以上の理由はないに違いない。出張用のカバンを整理していたら名刺が出てきたとか、学校でイベントがあって、卒業生に当たっているとか、そんなところだろう。
なんとなく、電話をかけなおす気にはなれなくて、夕方まで待つことにした。電話がかかってこなければ、それでいい。机の上の本を手にとって、布団の中に潜り込む。途中、うつらうつらとしていたようだ。電話のことを考えていたからか、半年前に再会した日の夢を見た気がする。
―――「Excuse me? 」
「Yes?」
声を発してから不思議に思う。後ろから低い声に呼ばれた。だけど、どうして、私に声をかけたと思ったのだろう。午後三時の東京駅。人なんてごまんといるのに。私は、ゆっくりと後ろを振り向く。後ろを振り向いても、誰が私を呼んだのかはすぐには分からなかった。目の前を人の波が交差する。道行く人々の歩みは早く、視界の中を縦横無尽に動き回る彼らを見ていると、目を回しそうだ。
そして、実際に少しふらついた。バランスを整えるために小さく足を開く。体重を支えたところで小さく俯くと、私に向けて差し出された手が視界に入った。がっしりとした分厚い手。生地のよさそうなコート。腕の先を窺う。
そこには、にやついた顔の男性がいた。
「Long time no see! 」
突然の懐かしい顔との再会に私の思考は白く塗りつぶされた。しかも、英語である。東京駅で、日本生まれ日本育ちの日本国籍の知人男性に英語で話しかけられることなんて、この先の人生を含めて、これが最初で最後だと思う。
返答にしばらくの間が空いたとして、誰が私を責められただろう。なんと返すべきか逡巡して、
「Yes. Good to see you again. 」
と、戸惑いながらも、ようやくのことで、そう言って、私は彼の様子を窺った。彼の後ろでは制服姿の少年少女たちが不思議そう、というよりも、不安そうにこちらを見ている。そんなことはお構いなしに彼は、嬉しそうに会話を続ける。
「How have you been? 」
自身の動きが一瞬止まるのを感じた。いつまで続けるつもりだろうか。私は、難しい顔をしていたと思う。日常生活において、そうそう出くわす場面でもないし、相手の意図はさっぱり分からない。彼の顔は、それに反して、にこやかである。英会話ができないと思われることも癪だが、こんなことを続けて、後ろの子どもたちをつき合わせ続けるのもかわいそうな話だ。私は小さくため息をついた。
「相変わらずですよ。佐伯先生もお変わりないようで。」
私の回答に彼は少し、つまらなさそうにしながらも、右手を差し出してきた。久しぶりに会った相手と握手をするというのも、あまり日本人同士では見かけない風習の気もするが、差し出されたものは受けざるを得ない。
しっかりと力のこもった握手は、活力の衰えを微塵も感じさせなかった。
「偶然だな。」
再会を喜んでくれているのか、彼は、にこやかな顔で真っすぐとこちらの目を見て話してくる。人の目を見て話すのは苦手だ。どうしても視線が手元にいく。
「本当に。卒業以来ですから、十年ぶりくらいですかね。」
視界の端に不安そうにこちらを見ている高校生が映る。彼の教え子だろうか。引率の先生が、地元から遠く離れた東京駅で、よく知らない妙齢の女性に声を掛けるなんて、不安だろうなと思う。しかも、英語である。初見の日本人女性に対して、嬉しそうに英語であいさつをする引率者を見たら、私だったら付いていくことを躊躇う。話しかけられた本人からしても、怪しい壺を売りつけられるのではないかと、疑心暗鬼になるレベルだ。そんな彼らに私ができることは、精いっぱい、「大丈夫だよ」という雰囲気を醸し出しアピールすることぐらいである。心配そうな高校生を横目に、私は彼との会話を続ける。
「今日は、修学旅行ですか?」
予想外のことに対処するのは苦手なので、一刻も早く立ち去りたい気持ちもあるが、目上の人が、わざわざ声をかけてくれたのだから、それが最低限の礼儀というものだ。彼にしても、挨拶をして立ち去らないところを見ると、しばらく話す心づもりなのだろう。
「高校で東京に修学旅行とか残念すぎないか。」
彼は私の質問に、そう答えた。
残念かどうかなんて、人によるのではないだろうか。大人たちは、東京に行く機会があっても、田舎の子どもなんて、東京に出る機会はそうそうない。しかし、無暗に波風を立てるのは避けたいので、口には出さなかった。
「修学旅行でもないなら、どうして、こんなところに?」
会話を続けながら、子どもたちを見る。こんなところで長々と立ち話していても良いのだろうか。制服姿の子供たちを連れているということは、間違いなく勤務中であるはずだが、予定に差し支えないのだろうか。
私の気配を悟ったのか、彼は私に少し待つように伝えたうえで、教え子たちのところに戻った。子どもたちの前で話す彼は、先ほどまでとは少し表情が違う。先生だな、と思う。彼らにとっての、絶対的な大人。
子供のころ、二十歳になったら突然大人になるのだと、なんとなく思っていた。大人は何でも知っていて、正しいことを選択できるのだと。二十歳を超えて、毎年、年を重ねるごとに、大人なんていないのだと分かった。みんな子供のまま、大人のふりをして生きている。
私は、彼の様子をじっと見つめた。かつても彼は私にとっての絶対的な大人だった。
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