[小説] 記し #5
八月十日がやってきた。今日は沖田を駅まで迎えに行くことになっている。沖田は、歩いて向かうと言っていたが、高校までは駅から少し距離がある。迎えを打診したら、「手を煩わせるのも申し訳ないから」と、遠慮がちに断られたものの、強引に迎えに行くことに決めた。何せ、今年も猛暑だ。今日も太陽は強く照り付け、高い気温は体力をじわじわと奪っていく。田舎に響くセミの声は、それだけで体感気温と不快度指数を上昇させる。沖田に熱中症にでもなられたら、たまったものではない。
駅に着くと、沖田は外で待っていた。ワンピースに薄いジャケットを手にしている。暑いのだから、律儀にジャケットなんて持ってこなくてもいいのに、と思ったが、校舎の中は冷房が効いているのでちょうどいいかもしれないと、すぐさま思い直した。それにしても、中で待っていればよいものを。着いたら電話すると言っていたのに真面目な奴だ。
沖田は昔からそうだった。馴れ馴れしく話しかけてくる割に、こういう礼儀はわきまえていて、あいつの行動に不快にされたことは一度もない。
沖田が分かるように、目の前で車を止める。沖田は全く気が付いていないようだった。それもそうだ。東京駅で会うまで十年も会っていなかったのだし、俺の車だって何度か買い替えて、沖田が高校生だったころからは変わっている。俺は、車のウインドウを下げて、名前を呼ぶ。
「沖田。」
ようやく沖田は目の前に止められた車が迎えだと気が付いたようだ。ぺこりと頭を下げる。助手席に乗るべきか、後ろに乗るべきか迷うように視線が動いた。俺は、手を伸ばして助手席の扉を開ける。
昼過ぎだったので、何か食べてきたかと聞くと「食べてないですけど、食べる気もないので、そのまま向かってください。」と言われた。彼女と話をするのは久しぶりで、少し気後れする。あの頃と同じように話しかけたとして、あの頃と同じように返してくれるだろうか。
「ダイエット?」
俺は茶化すように尋ねる。
「私には、縁のない言葉ですね。」
沖田は表情を変えずに、バッサリと切り捨てた。俺は、思わず笑みをこぼした。
「急に笑わないでもらえますか。」
相手が年上かどうかは関係なく、バッサリいくところは相変わらずだ。しかし、本人に、その気はなかったらしい。
「待ち時間を考えても二時間ほどでしょう。大丈夫ですよ。緊張しいて、あまりお腹空いてないんです。」
自身の声の調子が冷たいことに気が付いたのか、沖田はフォローするように言葉を続けた。成長したな、と思う。
申し訳ないが、高校生の頃なんて、精一杯背伸びをして、大人のふりをしているのが見え見えだった。そして、子どもの思う大人の像というのは現実とは少し違って、大人ぶる沖田は見ていて微笑ましかったものだ。そんな沖田が相手を気遣ってフォローする姿なんて見た試しはない。
少しばかり沈黙が続く。沈黙が辛いのか、久しぶりに目にする母校への道のりが懐かしいのか、沖田は、ずっと外を眺めている。このまま黙っているのもつまらないので、適当に思いついた言葉を投げかける。
「ワンピース、似合いますね。」
東京駅で見たときには、パンツスーツだった。高校の頃は制服姿とジャージ姿しか見たことがなかったから、新鮮だ。そして、単純にきれいになったとも思う。高校の頃、テニス部の副キャプテンを務めていた沖田は、こんがりと日に焼けていた。
今の沖田は、少し心配になるくらい肌が白い。表情もどこか儚げで、俺の知る沖田のイメージとは少し離れている。そんなことを考えていたら、沖田が訝し気にこちらを見ていることに気が付いた。俺は少し焦る。
「待て、他意はない。褒めただけだ。」
セクハラだ、と騒ぐタイプの人間ではないと思うが、会話を間違えただろうか。
「いえ、ありがとうございます。」
焦る俺を見て、沖田は小さく笑う。そして、再び窓の外を眺めだした。俺は、ほっと胸を撫で下ろす。
「それにしても、沖田サンでも、緊張するんですね。」
意外だった。この手のイベントに関して、沖田が緊張しているところなんて、見たことがない。少し考えるような間を空けて、沖田が言葉を発する。
「先生でも、お世辞言うんですね。」
変わったのは、お前も一緒だろうと言わんばかりの沖田には、高校の頃の影がちらつく。お前、と言いかけた俺に沖田は言葉を続けた。
「冗談ですよ。初めてお会いする方も多いですし、場はわきまえた方がいいかと思って。それに、先生に恥をかかせるわけにもいきませんから。」
この十年で、ずいぶん殊勝になったものだ。時は人を変えると言うが、沖田も例外ではないらしい。昔はもっと、自信に満ち溢れていたように思う。同時に傲慢だったとも思う。失敗を知らない沖田にとって、恐れるものなど何もなかったのだろう。俺たち教師も、優秀な沖田には、多少のことには目をつぶって好きにさせていた。社会に出て、良くも悪くも揉まれた、というところだろうか。せっかくなので、仕事の話を振ってみる。
「仕事どうだ?」
「まあ、可もなく不可もなく、ですね。」
彼女はつまらなさそうに答える。こういう時は問い質しても、はぐらかされることは目に見えているので、それ以上の追及はしないことにした。あいまいな返事しか返ってこないということは、それほど話題にしたいものでもないのだろう。俺は話題を変える。
「最近、高校の頃の奴と連絡とかとってるか?」
「クラスメイト、という意味なら全く。興味もありませんし。」
間髪を入れずに答えが返ってくる。俺は苦笑した。俺からすれば、懐かしい顔も何人か浮かぶし、あの頃の沖田のクラスメイトが何をしているのか多少なりとも気にはなっていたのだが、沖田にとっては、どうでもいいことらしかった。思い返せば、沖田が教室で楽しそうにしていることは少なかった気がする。友達がいないわけではなかったのだろうし、むしろ部活の友人と話すときなどは、中心になっていることが多かった気がするが、不思議と教室では一人でいた記憶がある。
話の振り方を間違えたかと考えていると、意外にも、「先生の方が詳しいんじゃないですか?」と沖田は話を続けてくれた。
「依田は教師になったらしいな。俺も直接会ったわけじゃないから詳しくは知らないけど。」
依田というのは、沖田の所属していた理系のクラスで、珍しく英文科に進学した生徒のことだ。彼女は大学卒業後、この近くで教師として働いているらしい。しかし、やはり沖田は、たいして興味もなかったらしく、「そうなんですね。」と一言返しただけだった。興味のない話を続けようとしただけ、大人になったと思うことにする。
それにしても、高校時代に比べてなんとなく会話のテンポが悪い。久しぶりに会うとはいえ、もう少し会話があってもいいような気がする。そう思って、ふと助手席に目をやると、沖田が眉間にしわを寄せているように見えた。気分でも悪いのだろうか。生徒だったころは、あまり具合が悪そうにしているところを見た記憶がないが、車酔いするタイプなのだろうか。「酔った?」と聞くと「少し。」と返ってくる。車の窓を開けて換気する。「もう着くから。」と伝えると、「すみません」とだけ言って目を閉じる。それ以上、沖田に話しかけることもできず、あとは、なるべく彼女の負担にならない運転を心掛けた。
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