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[小説] 記し #12

倒れこんで、どのくらい経ったのだろうか。今日はよく蒸す。佐伯さんをつき合わせていることが申し訳ない。
「あの、もう、大丈夫です」
そう告げて、身体を起こす。佐伯さんは心配そうにこちらを見つめている。
「校舎の中に戻りませんか。空き教室で、お話したいことがあります」
はっきりとした口調でそう告げると、具合がよくなったことに納得したのか、佐伯さんはうなずいた。校舎に向かって歩き出す。

「静かですね」
私は、佐伯さんに話しかける。記憶がないことを告げてから、圧倒的に口数が減った。沈黙は気まずい。
「正直、戸惑ってるよ」
佐伯さんは、言葉を選びながら、話し出す。
「どうして黙ってたのかも、何の目的があって来たのかも、聞きたいことだらけで」
まあ、そうだろうなと思う。私は黙って話を聞いていた。
「しかも、俺の知ってる沖田都の像からは、かけ離れていて、きちんとした社会人になっていて」
なんだか、失礼なことを言われている気がするが、それだけ親しかったということにしておこう。
「だけど、たまに、沖田だな、と思う。君が、それを聞いて、どう思うかはわからないけど」
佐伯さんは、思ったままを口にしているようだった。
「さみしい、ですか?」
私は、聞いた。
「まだ、混乱していてよく分からない。忘れられた上に、嫌いだったことだけ覚えていると言われれば、寂しい云々より、得体の知れなさの方が強いな」
得体が知れないなど、よく本人を前にして告げるものだと思うが、先ほどの発言で、思ったより線を引かれてしまったらしい。
 しかしながら、得体が知れないというのは、言いえて妙だと思う。「私」が何から構成されるかは知らないが、「先生」の記憶を持たない私は、佐伯さんの知る沖田都ではない。彼の前で、どんな風に笑って、どんな風に嘯いて、どんな冗談を言ったのか、私の記憶には、欠片さえも残っていないのだ。人が、人を懐かしむためには記憶が必要で、人が、人を認識するためにも、共通の記憶が必要なのではないだろうか。そうすると、私は佐伯さんにとって、ただ、沖田都の皮をかぶった他人でしかない。佐伯さんには、私のことが、どんなに奇妙に映っているか想像もつかない。

 話しているうちに校舎へとたどり着いた。せっかくなので、私の過ごした教室を見せてもらうことにした。夏休みのこの時間なら空いているだろうと言うことで、そこで話をすることにする。
 しかし、その前に私には、もう一か所回りたい教室があった。佐伯さんに話し、案内してもらう。案内を依頼された佐伯さんは、不思議そうな顔をしながらも、理由を聞くこともなく、目的の教室に案内してくれた。

「ここが、地学室。何かあるのか?」
佐伯さんは首をかしげている。それはそうだろう。私は高校で地学なんて習ったことはないはずだ。私は、教室の中をちらりと覗くと、もういいです、と告げた。
「佐伯さんの担当しているクラス通っていきませんか?」
佐伯さんは、突然の提案に尚一層、不思議そうに首をかしげている。目的の教室に案内したにもかかわらず、ちらりと教室を覗くだけだったことも、影響しているのだろう。何か、問いかけようと、口が開いたり、閉じたりしていたが、あきらめたように息をついた。
「構わないが、遠回りになるぞ」
「ええ、ありがとうございます」
そうして、ぐるっと校舎を巡って、一階にたどり着く。左手に進めば、佐伯さんの担当しているクラスの教室がある。目的地である三年一組の教室に向かおうと右方向に一歩踏み出した佐伯さんを、私は呼び止める。佐伯さんは、怪訝な顔をして立ち止まった。

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