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[小説] 記し #1

 こんなことで泣くな。泣く資格なんて、ない。

「走ってきます。」

負けた方はペナルティ走だ。たぶん、泣いたのは見えている。顧問からも、後輩からも。もう、どうすればいいのか分からない。ボールを打つのが怖い。原因なんてわかり切っていて、自分の心の弱さに嫌気がさす。三か月間、ずっとこうだ。

 堰を切ったように、涙がこぼれ落ちる。帽子を深くかぶった。何度も目をこする。泣くのは、ずるいことだと思う。見ている相手の同情を誘う。同情される資格がなかったとしても。

 小さくギギと錆びた金属がこすり合う音が聞こえると、蛇口から水が溢れる。コートのすぐそばにある水飲み場の蛇口をひねって、頭から水をかぶる。今日は暑い。頭から水をかぶっていても目立たないし、すぐに乾く。だから、しばらく水を浴びていた。今日は暑い。

 今日は、暑い。

 ただ、それだけだ。だから、顔があげられない。配管を通って水が流れ出る音がしばらく続く。振り返らなくても、周りの人の視線がこちらを向いていることは分かる。

 不意に力のこもった唇からは鉄の味がする。

 すると突然、

「声出てないよ」

と大声でキャプテンが号令をかける声が聞こえた。慌てた様に、ファイトーという甲高い声がコートに響き渡る。

 私は水を止めて、持っていたタオルで水滴をふき取る。目の周りのそれは、何度ふいても拭いきれない。自分の意思では止められない涙に私は悪態をつく。そして、タオルを芝生の上に捨てて、走り出した。

 それでも涙は止まらなかった。泣いていることを忘れられるくらいに、馬鹿みたいなスピードで走った。息はすぐにあがる。苦しかった。そうして、五分くらい走っただろうか。私は、誰にも見えない場所で止まった。行き場のない感情に、意味もなく腕を振りあげ、勢いに任せて振り下ろす。

 「クソっ」

さっさと泣き止め。部内戦だ。次の試合がある。副キャプテンだろ。ちんたら走ってるなんて、示しがつかない。

どうしてこんなに弱いのだろう。誰かが言っていた。いつも以上のことをしようとするから緊張するのだと。

 だけど、これは、緊張なんかじゃない。いつしか、上手くやらなきゃいけないというプレッシャーからラケットを振ることが怖くなった。落ちるのは一瞬だった。どうやってラケットを振っていたのか今では思い出せない。そして、何をしても上手くいかないという意識が、目の前の球を打つことを躊躇わせる。そうしてラケットのスイングは鈍り、打った球はすべてネットにかかる。あとは悪循環だ。上手くないのなんて分かっている。上手くなんてないのに、結果を残すべき立場にいることが辛い。

 初めから分かっていた。自分の実力と期待値との乖離。それは一年と少しの時間をかけて私の心を蝕んだ。ラケットを振ることを躊躇うほどに。逃げ出したかった。副キャプテンという立場がなければ、勉強を言い訳にして逃げることもできたのに。

 自分の意思に反して、涙がこぼれてくるなんて何年ぶりの経験だろうか。早く止まれ。私に、そんな資格はない。うつむいて、Tシャツの袖で何度も目元を拭う。人の気配がした。他の部員だろうか。ペナルティ走の邪魔にならないよう道を空ける。しかし、気配の主は後ろで立ち止まった。コートには公園も併設されている。一般の利用者の可能性もある。

 しかし、後ろの気配の主は、一向に動く気配を見せない。関係者だろうか、そう思った私は、低い声で尋ねた。

「誰。」

たった一言。とても後ろを振り返ることができるような状態ではかった。後輩なら、自分のことを棚に上げて、さっさと走れと指示を出すつもりだった。男子テニス部員でも然りだ。顧問だったならば、多少は話す時間が必要だろう。こんな状態で、団体戦のメンバーなんて入れない。同学年ではないことは確かだ。彼らは、私が苦しんでいることを知っているし、こんな状態で話しかけられるのを嫌がることだって理解していると思う。

「佐伯ですけど。」

予想しなかった相手に、涙が止まった。目元を拭う。これ以上、出てくるな。

 落ち着け。こんなこと、なんでもない。

「何か御用ですか。」

 佐伯、というのは男子テニス部の副顧問だ。副顧問ながら、部活に顔を出すことなんてほとんどない。二年のクラスを任されているので、忙しいというのもあるのだろうが、彼はおそらくテニスなんてものに興味がないのだと思う。だから、今まで話したことなんてなかった。普段の授業では、英語を担当してもらっているが、私は先生に質問に行くタイプでもないし、それらしい会話をしたこともない。なぜ、追ってきたのだろうか。そもそも、部活の開始時には姿を見なかった気がするが、いつの間にコートに来ていたのだろう。

「……その、大丈夫か。」

一瞬で頭に血が上るのを感じた。先生に、何が分かる。大好きな野球部から外されて、好きでもないテニス部の副顧問になって、滅多に部活に顔を出さないお前に、一体、何が理解できる。私にとって、何の意味も持たない教師に、なぜ、追及されなければならない。後輩に負けたから泣いているとでも思っているのか、物珍しさに後を追ってきただけか、何にせよ、お前に話すことなんてない。

 私は、深呼吸する。今日は、暑い。セミが鳴くのを躊躇うほど、太陽は強く照り付け、じりじりと肌を焼く。

「今日も暑いですからね。適当に頑張ります。」

声は、震えていたと思う。泣いていたからか、怒りからかなのかは分からない。後ろなんて振り向かない。私は、そのまま、ペナルティ走を再開した。佐伯先生が、そのあとどうしたのかは知らない。部活中も、部活が終了してからも、特に声を掛けてくることはなかった。

 疲れきって帰宅する。Tシャツも、肌着も汗でぐしょぐしょだ。シューズには砂が入り込み、じゃりじゃりと不快な感触がする。一刻も早くシャワーを浴びたい気持ちを押さえつけ、シューズの手入れをする。シューズの手入れが終わった後は、自身の足についた砂を落とす。髪も汗と砂で、ざりざりとしていて気持ち悪い。手早く砂を落とし、風呂場へと急いだ。勢いよくシャワーを浴びる。疲労した後のお風呂ほど気持ちのいいものはない。汗と砂と日焼け止めで、べたつく肌を丁寧に洗う。顔は日に焼け、シャワーを当てるたびにぴりぴりと痛んだ。やさしく肌を洗い上げる。泡と共に、もやもやしたものも少しだけ流されていく気がした。体中をきれいにした後、湯船につかる。

 そして、ようやく一息ついた。

 落ち着いたと思えば、今日の出来事が勝手に反芻される。自然と頬を涙が伝った。天井を仰ぐ。泣いていても仕方がないと分かっているのにとまらない。目を閉じて静かに受け入れる。ここには今、誰もいない。

 こんなに泣いたのはいつぶりだろうかと、考えて、不意に佐伯先生のことが頭に浮かんだ。

「その程度なら、初めから興味本位で追ってくるなんてしなければいいのに。」

日焼けした肌の痛みを感じる湯船の中で、少しだけそう思った。

―――彼についての私の記憶は、これがすべてだ。

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