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夜は美しい - 昼の明示性から解き放たれる

禁じられた遊戯は、夜の世界の美しさの中でこそ棲息できる。
痛みを引き受けて、引き裂かれ、匿名に賭けたエモーショナルなプレイヤーの内面にある、美しさ、痛みは、夜の中で陶酔する。


夜の新宿二丁目新千鳥街で

2023年3月下旬から4月上旬にかけて開催していた Latex Gloves 8 展、初日とその翌日に関しては「今回すごく良いよねー」という会話一辺倒で、議論的には、フライヤーに記したテキストにまつわることを、お客さんがひいたタイミングでS.オニクボさんと延々していた記憶が強い。

...joy with a person with unknown background
素性の分からない者たち同士が
素性を詮索することもない夜のイリュージョン

Latex Gloves 8 表面

内宇宙文脈のボディーフィジカルなラバーフェティシズム
プロフィールに何の意味もない仮構世界線からの身体拡張

Latex Gloves 8 裏面

総じて、夜は美しい、という一文に向かうのだが、裏面の文に関しては〈ラバーフェティシズム〉の中でも〈ボディーフィジカル〉つまり体に直接的なものを扱ってはいるけれど、その文脈は〈内宇宙〉だ、と読むことは容易で、体なのに〈内宇宙〉文脈とは? という疑問が現れそうではある。〈内宇宙〉というのはインナースペース、SFではニューウェーブ、つまり、サイバーパンク文脈ではないという話だが、この一文でそこまで伝えようとはしていない。

最後の一文は難しい。〈仮構世界〉ではなく〈仮構世界線〉であることから世界が一つではなく、世界が複数ある中の一つの領域を扱うことを明記しているが、その世界線の要素は〈プロフィールに何の意味もない〉。それは一体どういうことなのか? まぁ分からないよね、と言うと、S.オニクボさんがこう答えた。

「それはつまり、歴史がない、ということだよね。」

では、歴史がないところからの身体拡張とは? そこで、議論が始まる。

表面に関して〈...joy with a person with unknown background〉という一文はすっと入ってくるけど〈background〉が〈素性〉と訳されるのは逐語訳すぎないか、という意見も。それを受けて説明したのは、最初の日本語としては〈背景の分からない人との喜び〉というのがあって〈属性〉という単語も候補にあったが〈素性〉に落ち着いた、というもの。

〈素性の分からない者たち同士が素性を詮索することもない夜のイリュージョン〉という一文を立ち上げた自分の心象背景と、この一文からS.オニクボさんが思い描く心象背景に大きな隔たりがあり、それは、他の方たちに〈夜は美しい〉と口にしてもすんなりと共有できない経験から、自分が持つ背景は、言葉をもっと費やさないと共有できない、という結論になった。

夜の非明示性

神戸のミッドナイトカフェで、お客さんを交えた三人で〈夜は美しい〉について議論をしたが、お客さんが〈夜はきれい〉というのなら分かる、と意見が出た。しかし、自分はそれを共有できない。夜はきたない人も多いしむしろ残酷だし、ゲロまみれだし、どこも綺麗ではない。お客さんは〈夜はデンジャーだ〉と言った。今度は、さっき記した内容と同じなので共有できる。つまり、そういった夜の危険も含めて〈美しい〉と感じるのだと話した。

繰り返し述べたのは、夜が明示性を持つようなら昼でいい、ということだ。

「夜の美しさを感じとるのは、夜をさ迷う当人だ。」

というテキストを二回読み上げた。

夜の美しさを感じとるのは、夜をさ迷う当人だ。そして、匿名性というのは、当人自身、自分が何者なのかを分かってなくて、何をしているのかも分かっていない、からこそ生じている。勿論、社会上自分が何者なのかといったことは知っているはずだ。だが、それは本質ではないと感じている。ペルソナのようなもので、自らが闇の中そのものだ。だから、夜に答えがある、夜を同じくさ迷う者達に答えがある、と考える。闇の中で、特定の誰かと惹かれあえば、激しく燃える。または、火花を散らす。夜の闇の中のあちこちで、そのような灯がちらちらとしている。

2023, _underline

このテキストに関して、突然俯瞰的になり、大きな話になっている、という意見もあった。

S.オニクボさんとの会話に戻ると、自分が、〈素性の分からない者たち同士が素性を詮索することもない夜のイリュージョン〉という一文はハッテン場?と思うよね、と口にすると、すっと同意があった。しかし、一期一会の極点であるハッテン場に収束される話がしたいわけではない、今の時代、さっき会った人とすぐにSNSで何者かが分かったり、そういう現代社会が夜を奪っている、というようなことを含んでいると話す。

明示性は昼の領域であり、街のいたるところに監視カメラがあっても危険性との天秤にかけたときにもう誰も監視カメラ批判をしなくなったし、自分はそういった現状に批判的になったことはない。

明示性でいえば、自分は店舗に関しては業界的なところしかもう出入りしていない。つまり、自ら進んで明示的な店を選んでいる。かつては、そういったお店を選ぶ反面クルージングスポットへ出向いてバランスがとれていた。しかし、それは店の話であって、自分にとっての夜は、店に尽きる話ではない。

神戸の昔から親しい別のゲイバーで、週末に働いたら夜出てこれへんやん、と返されたが、自分にとっての夜は、店基点のカルチャーではなく、真夜中の路地であったり、夜な夜な公園や僻地に人々が出会いを求めて集まっていたり、ただただ真夜中に働いていたり、つまり、夜の闇と同化することに意義を置いている。例えば、緊急事態宣言中、ほとんどの店は閉まっているが、それでも、開いている店は開いている、そういうバランスこそ従来の夜の光景だったのではないか、そういう思いを否定しきることはできなかった(とはいえ、休息箇所を含めて、開いている店が多いことで導線ができないと、実際のナイトライフは厳しい)。

新宿のThe Ballad of the Sad Cafeで夜が美しいというワードを口にすると、そうかしらアタシ人が集まるところ好きじゃないし、と即答がきたが、夜は真夜中は誰もいない路地とかも色々あるよ、とだけ捕捉した。この店では、そのあとに膨らんだ話題も自分にとっては夜の領域だ。

〈非明示性〉に関心を抱いていて、フライヤー表の写真が不明瞭だったりするのはそういうことと関係があるとS.オニクボさんに話した。

土曜日の在廊で作家でもあるお客さんに名義の由来を尋ねられ、検索に出てこないような記号性、といった説明をもう少したどたどしく答え、学生の時からそういったことにはこだわっていると伝えた。

不明瞭といえば、自分の小説「Garbled」の構成主題が、不明瞭それ自体だ。霞が、霞のままであることを望む。

近年、パンデミック以前から、昼に開いている店が好きになっていた。夜の街出身の人が昼から夕方に営業している店は、昼でも夜の気分で楽しめる。かつて、クラブを運営していたとき、パーティーが夜を越えて朝になっても延々と続くのは素敵だよね、と口にしていた。そしてそのまま、午前からやっている夜の店に繋げれば一層いいよね、と。バーの業界人が明け方飲みに出るバーは昔からあるが、夜というのは物理的な、太陽が登っていることに尽きる話ではない。ミッドナイトカフェの店主は、色々会話していくなかで、朝になってもゆるりと飲み騒いで、ずっとこの暗い店内にいるのが楽しい、と語っていた。

夜とは昼の明示性から解き放たれることであり、夜が明示的になるようなら、それはもう夜に価値はなく、昼に過ごせば良い。その懸念から、夜の美しさを再構築する必要を感じての、今回の写真展だ。

通信というより、傍受

S.オニクボさんと、フライヤーのテキストに記している匿名性、素性の分からない、という文脈から〈無〉に至る、と告げると、無の対義語は存在だよね、と、サルトルの「存在と無」を引用し、無を語るときには存在を語ることになるという返しが来た。

自分が〈無〉を再重視した文脈は、ポストモダン的といえる。

二十代のかつて、年齢的にも若く夜中を求めたとき、様々な混沌を経つつその混沌が進行的でもあったため、アイデンティティはオーバーフローを起こしていて、理路整然と自らをまとめることなど不可能だった。様々に内面は砕け散っていて、心には無と反応しかなかった。

何かあればどう対応するか、そういう反応の拠り所は、個人史つまり歴史的ではあるが、それよりも深いところで無だった。

無である、とは、改めて存在を生きる、ことだといえる。

〈素性を詮索することもない夜のイリュージョン〉この〈イリュージョン〉に関しても、S.オニクボさんとの間で最初、イメージの隔たりがあったように思う。ただそれは、2022年のゲルハルト・リヒター展、とりわけ「ビルケナウ」についての感想を伝えていく中で、自分が捉えている〈イリュージョン〉の意味合いが伝わったようにも思う。ゲルハルト・リヒターは、絵画的ヴィジョンと、写真と、写真からの絵画的ヴィジョンと、立体と、様々に制作物を移動する。そこにある〈イリュージョン〉に自分はシンパシーを得ている。自分の表現は〈多次元の転換〉を主題としているからだ。

商業ベースのコミュニティや大衆化していくAI生成についての言説を渡り歩いて、それはそれで楽しいのだが、そのような世界線にいると表現ベースの価値とは何だろう、と考えるようになるため、これは表現ベースマウント的な話とは正逆だ。

表現ベースと商業ベースとの違いは、作品から発される通信が、真上に伸びているか、それ以外の角度で伸びているか、その違い程度しかない。

内宇宙で満たされているために他者の制作を必要としない者は、別に、真なる孤独を愛しているわけではない。ふとよぎる程度の孤独、を満たしてくれる、似たような存在、表現ベースの型と通信するには、真上に伸びた〈混線性〉が極めて低い構造の型を、自ら求め、傍受するしかない。

通信というより、傍受。

表現者が別の表現者の存在をふと感じようとしたときに、AIアーティストが対象の場合どうなるのだろうと考えてみる。

表現者が他者を意識するとき、それは、ふとした孤独と寄り添ってしまったときで、描かれている内容の差異はともかく孤独を表現している声を探す。

2023年上旬、Stable Diffusion 2.1 Demo のファンだったが、この画像生成AIが自らの孤独を表現することは一切ない。そういう意味で、Stable Diffusion 2.1 Demo はセンスはいいが、商業ベースの表現者であり、例えばテーマに孤独を設定して生成させても、それは当然、AIが感じた孤独の表現ではなく、孤独という概念を扱った編集でしかない。

表現主義ベースであろうと商業ベースであろうと、一人の人間が試行錯誤し一人で完成させた作品には何かしらの孤独が含まれていて、表現主義ベースと商業ベースはそこのところの孤独の純度が違うだけだが、分業が進むほど成分としての孤独はどこまでも解体される。その、徹底した状態がAI作品といえる。だから、表現主義ベースにおける同種族同士のアンフラマンスなコミュニケーションが、AI生成による作品と人との間には、ない。

おそらく、AIが様々にデジタル内で固体化し、それぞれが悩み、孤独を抱き、それを表現しだしたとしても、好奇心や寄り添いを含めた研究観点での受容はあっても、真に自らの孤独に対する共振を探す際の、自らの真空状態での対象にはならないように思う。

夜は渦巻き迷宮化する

夜は美しい、と思うのは、何かのためではなく、自己の存在のために必死な人が多いように感じているからかもしれない。

「何か」のために必死な人は、昼の明示性の世界では、自分は〈美しい〉と感じるよりも、〈立派だ、こういう人が今以上に認められる社会であるべきだ〉ときに〈尊い〉そういった思いに駆られる。

しかし、「何か」のため、例えば、国のため、志のため、誰かのため、生活に結びつけた金のため、などに必死な人であっても、背景に自己の存在が強くある人が夜は見つかりやすい。そういう人も、昼だと、その「何か」が分厚くなり、その者の自己の存在は、その分厚さに隠れる。しかし、ひとたび夜になると、生々しい本音のような類いのものが「何か」のための背後から渦巻いて現れる。現れた生々しいそれはカオスで、「何か」のためというのは簡明だが、カオスのそれは自己の存在についてのものである以上、解きほどこうとすればするほど迷宮が立ち現れ、明示性とは対極の様相を見せる。

「何か」のためをつかみとれるほどの余裕がなく、真に自己の存在と向き合うしかない純度の高い人が、夜の街には多くいて、それが自分には美しい。

物理的に夜であろうが昼であろうが関係なく暗闇の、ハッテン化した映画館のなかで、歳のいった女装が歳のいった男たちに囲まれて攻められて喘いでいても、自分には美しい。

何を美しいと感じるか、という話で、自分はそういう方向だ。

自己の存在のために誰かを踏み台にしはじめる人については、美しいとは一切思わない。トラブルの多くはそういうところから発生するが、自己の存在のために必死であると、そういう事例も簡単に現れ、ゆえに平和とは程遠く、クソで、不快で、生々しく、人々が渦巻いていて、俯瞰的には、その渦巻いている情景自体が美しい。

自己の存在のために関する同類と、教師と、反面教師、何かのための昼の明示的な者達でさえ、それを維持する上で必然的に生じる心の綻びに示されるカオスの欠片、そういったものが、闇に溶けながら脈を打っている。

闇という形のトランス。

自己の存在論に結論はないのだから、社会投機が実存の導きというルートは正しいが、自分は、正しさは第二で、美しさを第一とした思考を望む。正しいことが美しい?

背徳を好む以上それは無理だ。

例えば、被害者側のロマン・ポランスキーやシャロン・テートが好きなので、60年代ヒッピーコミューンの負のカルトの末路チャールズ・マンソンはクソだが、多面的に面白い対象であるから負のカリスマとも自分は思う、といった、歴史一切のすべてが何も関係なく、彼の曲「Look At Your Game, Girl」は美しい。

歴史なき、無、とはそういうことだ。

作家と関連したものの中で、歴史から解き放たれたものは、何だろうと考えたとき、作品だ、と気づいた。

一個で完結した作品は、崇高、であり、歴史は掻き消される。

哲学史上、美学は、美と、崇高に、二分される。

無とともに夜に肉体を謳歌した。

自分は、美以上に、崇高を望む。

その視点ゆえに、夜は美しかったのならば、改めて、夜を美しくあること。その手続きは背徳である。

言いたかったことはしかし、それではない。

このように綴る者とは別の物語を歩んできた、もう一人の自分がいる。リアルに、場面は転換する。

リアルな場面の転換がなければ、世界は一つに収束するという動きを止められず、ジェノサイドが起こる。リアルな場面の転換でなければ対立構造となり抗争しか生まない。マジョリティによる一切自覚を持たないジェノサイドの力は重々知っている。そして〈浄化〉される側が自分なのも知っている。そのために、自分の半分はマジョリティである。しかし、表情を変えれば、自分は、ピュアにマイノリティである。

作家は、政治の道具ではないし、大衆の道化でもない。

マジョリティからもマイノリティからも揃って敵視に晒される可能性のある異邦人であることが、アーティストの特質だと考えている。

そのような非収束者こそ真っ先にジェノサイドの対象だというのなら、そんな非寛容な世界で異邦人が生きること、つまり、独身者性という追い続けてきたテーマと重なる。

どこかに属すことから始まる世界は、美しさ、とは違う文脈に属している。

彷徨う〈無〉としての個人

〈夜は美しい〉というフレーズを一ヶ月くらい口にし、様々な議論をしてきた。

まず、〈夜は美しい〉というフレーズの議論から導き出した一旦の結論は、〈人生は美しい〉と述べるのと同じノリで自分が〈夜は美しい〉と口にしていること。

闇夜は美しい、とか、夜の街の光は美しい、とか、修飾語がないので漠然としていて伝わりづらい、という議論があって、自分も賛同していたが、話は逆で、〈人生〉というフレーズと同じくらい漠然さを越えた超越的な言葉として〈夜〉を捉えるケースが世間では少ないところに齟齬があり、自分は〈人生〉という言葉と同じくらいに〈夜〉に多様性を経験していて、〈夜は美しい〉というフレーズに違和感を感じない、ということだ。

昼の明示性と、背徳を包む夜。

そこを彷徨う〈無〉としての個人。

〈夜は美しい〉というフレーズは、その二行を無限大に包み込んでいる宇宙なのだと感じている。

_underline, 2023.4 - リライト 2024.1




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