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図像小説 -展示後記-

コンクリート・ポエトリーというジャンルがあって、20世紀後半に勢いをなくしたけれど、21世紀になって展覧会が組まれるなどし、再び一部で注目されているようです。文字を配置で表現する詩のジャンルで、文字にこだわらなくなるとヴィジュアル・ポエトリー(視覚詩)と呼ばれます。

自分はそれに近いことを小説で行っていて、2022年の8月、兵庫県の神戸、三宮のバーで小さな展示を行いました。

小説にしぼった展示をするのは初の試み。制作中の、999連作の小説「WHITE CANVAS WRITING - CAVE DIVER」を多角的に動かしたいという思いがあって、二宮カフェのギャラリー担当の方に誘われて、食いつきました。

この連作シリーズ、2017年にインスタグラムで開始し、2021年から頻度を上げて更新しています。

次のリンク先を参照。フォローしてもらえると嬉しいです。

本文のない出発点から。

自分は90年代に小説を紙にペンで書き始めて、様々な経緯を経て、自分が認めるところの第一作を、1997年の「Dis Pornography」としています。この小説は、多発性硬化症という特定疾患によって体が動かなくなり、視界も奪われた学生時代、ステロイドの投入で回復し始めた頃に病室で書き飛ばした短い小説が原型になっています。

その小説から本文を削り、2つの章タイトルだけを残し、完成としました。

2022年、日本でも回顧展が開かれるイヴ・クラインや、初期のラウシェンバーグ、ジョン・ケージの3分33秒のあとに作られた0分00秒、検索しても昔の自分のレビューページしかヒットしないラテンアメリカのミクロレラート(極小短編)へのシンパシー、なにより、リチャード・ブローティガンによるタイトルだけの詩「八八編の詩」に感化されています。※すべて後述

Dis Pornography, 1997

冒頭の写真は、設営を終えた直後の様子。

何枚かの紙が重なっていて、めくって読めるようになっている。日めくりカレンダーのようにやぶれるようになっている(無料で持って帰ることが可能)。一番上を真っ白な紙にしていて、それをやぶって小説が現れて展示開始というイメージでしたが、すべてが文字のない白い正方形の光景が美しくて、しばらくそのままにしていました。

白から始まる世界。

小説は、漢字とひらがなやカタカナを使いわけて、図像が見えるようにできています。

どうしてこういう小説を作ろうとしたのかについて、次のリンク先に〈真っ白の、正方形カンバスは、もはや無垢ではなく、無を象徴している。そこに、簡単な図像を想像する。簡単な図像を生まれさせるのだ。それを頼りに、小説内世界を生み出す。〉と記しています。

https://link.medium.com/LUpR61DjItb

ディストピアから、ディストピアへ。

多くの出会いをしていると、ときおり、社会で可能な限り自由な生物だ、という域を超えた、こういう生命体だな、と思える人に出会います。

去年、noteに、

読書で例えたが、ライフスタイルというのは、同じ話で、くつろぐスタイルの延長線にある事柄が大半をしめている。そして、それは、絵にならない。日記的な文章では可能だが、文章力がいる。結局、「キラキラしている」事柄の勧誘のような投稿が増える。望んだ世界線がずれても、必ずしも、結果が不幸ではないのが問題だ。自分の本来自然な幸福がかすむような勧誘のごとき投稿を前に、うっかり望んでいないキラキラした行為をしてしまって、時間を棒に振る。そういうのも、面白いけれど、苦笑がたえない。

と記しました。

2006–09年に作っていた長編小説、冒頭の一節。

〈その決行理由が存在のためだったなんて言おうものなら、そいつのことはもうどうでもよくなる。( — — ) だって、おれはそれをしたくないんだから。関心の持ちようがない。でも、( — — ) 本来の自らの姿なんだって言われたら、少しは会話も成り立つ — — おれだって、本来の姿になりたいんだ。方向性は違おうが、憧れじゃないんだね。自分に素直になろうとしたらそうなったんだ。素敵じゃん。そうあるべきだ〉

本来の姿、とは。

この長編小説の冒頭を、2010年に短編へと改稿し個展のための物販冊子の中に組み込んだ小説「for SEPT.」は、本来の姿を生きることを、先に引用した対話者から突きつけられた結果、社会から蒸発する男を主役にしています。蒸発することが、その主役の〈真の姿〉だったのです。

そういうことだって、あります。

本当の私、というのは、有ると考えていて、それは多発性硬化症で入院したときに確信しました。視力を失った未来を自分は生きるかもしれない。意図せず過去から切り離される可能性を感じたとき、いったん回復する中で、必要に駆られてマインドマップを作成し、それぞれの単位を一つ一つ、実はこれがなくても生きていけるのではないか、と精査してみました。

その結果、僅かながら自身のアイデンティティを構成している最小の要素に気づきました。

1998年、空洞になった私をジャックされ続ける江口由希たちという登場人物を軸にした「vinyl sexual」という小説を作り、2009–17年、その延長線にある小説群、文字化けをはじめとしたランダムな文字列のなかにテキストを挿入する形式の「Garbled」を作りました。更に2012–15年、個性を持つと、神的な力で存在ごと滅ぶ世界での断片群像劇「Deistic Paper」を作りました。

このカード式の64連作小説「Deistic Paper」にも、ほとんど本文のない1点があり、

2017年に始めた「WHITE CANVAS WRITINGS - CAVE DIVER」は、早い段階で〈本来の姿〉を獲得した主役の語り手が、水深40mを越えたオープンウォーターでない未知のディストピアを、100作目以降はブレずに潜り続けるだけの、ピュアネスを形にしようと制作を進めています。

主役の語り手は、何度も「発端」を見出す。

カリグラム、ビジュアル/コンクレートポエトリー、視覚詩とも違う、タイポグラフィーを取り入れたフェダマン、ベスター、ダニエレブスキーらの小説とも違う、展示を行った「WHITE CANVAS WRITINGS - CAVE DIVER」という図像小説の世界線は、一方でインスタレーションという形式で行ってきた〈結ばれたゴム手袋〉後に想像される世界線と同じ構造の対象領域にある。既存の世界の対象領域=オブジェクトドメインを増やすこと。

本来の姿を、自分自身に、そう見出しています。

ミクロレラートについて。

ミクロレラート(極小短編)という言葉を最初に知ったのは、越川芳明/沼野充義/野谷文昭/柴田元幸/野崎歓らによる「世界×現在×文学―作家ファイル」(1996) で、

〈目を覚ますと、恐竜はまだそこにいた。〉

という一文だけで構成された小説「恐竜」が有名な、アウグスト・モンテロッソが代表として紹介されていました。

下のリンク先でかつて紹介しています。

この文脈では、アルゼンチン、20世紀の巨匠、ホルヘ・ルイス・ボルヘスも外せません。

今はインターネットアーカイブには保存されているテキスト「タイトルしかない作品たち——リチャード・ブローティガン」を、かつて自分は一般公開していました。それを推敲し、引用します。

自分の作品群は、以下の世界線の先で存在し、そこは新雪で、先に誰もいません。

タイトルしかない作品たち

世の中には言葉通り、〈タイトルしかない作品〉というものがある。

アメリカの作家リチャード・ブローティガンは、サンフランシスコに移住する前年の1953年、18歳のときに、松尾芭蕉や小林一茶あたりの俳句を読むようになり、それと時期を同じくして詩作を開始している。回想によると、小説のための完璧なセンテンスを得るための訓練であったらしい。今村楯夫「現代アメリカ文学――青春の軌跡」(研究社)によっているけれど、そこではいくつかのブローティガンによる詩が紹介されていて、なかでも興味深いのは「君の最終的な考えの縁にある溶けかかったアイスクリーム」と「八八編の詩」の2つだ。

君の最終的な考えの縁にある溶けかかったアイスクリーム
まあ、いい、それを
人生と呼ぼう

このタイトルよりも本文が短い詩は “Rommel Drives on Deep into Egypt.”(1970)という詩集に収録されている。そこには「八八編の詩」と名づけられた詩もまた収録されている。この詩は、本文にあたる1ページが丸ごと空白であり、いうなればタイトルのみの詩だ。

どうしてこのようなものが作られたのだろうか? 例えば、現代アートの歴史にはロバート・ラウシェンバーグによる白一色の絵画ホワイトペインティングがあり、イヴ・クラインによる青一色を代表とした様々な一色絵画のモノクロームが存在する。音楽の歴史にはジョン・ケージの0分00秒があると聞いているし、そこからは次元を異としたインダストリアル/ノイズの歴史を見てみると無音音楽の宝庫だ。

コラージュを駆使してネオダダとして社会的な絵画へ向かうラウシェンバーグの初期ホワイトペインティングは、私的な美術史への批判だったと記憶している。イヴ・クラインのモノクロームは“空虚”を描く(体感させる)装置であり、それはのちに二階から飛び降りる等のアクションへも進む。ブローティガンのタイトルのみの詩に向かう過程は、日本の俳句を意識しているところから、ジョン・ケージの無音の音楽と同じく、禅という無我の境地へ向かっているのだと思われるが、より分かりやすいのは、今村楯夫が引用しているブローティガン「東京――モンタナ急行」(1980) 1章「記録上、最も小さな吹雪」その出だしだ。

記録上、最も小さな吹雪がぼくの家の裏庭で一時間ほど前に起こった。それはおよそ二ひらの雪片だった。もっと降らないかと待ってみたが、雪はそれだけだった。吹雪はただ二ひらの雪片だった。

自分は習作過程において 〈タイトルのみの小説〉を作らなければならないと思うようになっていた。ここで重要なのは、タイトルのみであってもそれを作り手が小説と見なせる揺るぎのない確信で、それは理論よりも感性に訴えかける類のものの方が重要に思える。フランスの現代作家フィリップ・ソレルスは3作目の「公園」から一転しヌーヴォーロマン風の小説をしばらく発表し続けるようになるが、その過程で限りなく散文詩に近づきながら「小説 ドラマ」とタイトルに “小説” という単語を入れたのは、小説の既成概念に訴えかけ新しい小説を提示しようとした試みの表れであると同時に、これもまた 〈小説〉なのだという作家本人の確信があったからだろう(サミュエル・ベケットという前例もある)。

かつて、98年の夏に、1章まるごと空白でテキストのない小説を作った。「最期の作品」というタイトルで文芸サークルに発表した。これは「作品164」「作品165」「作品166」という連作の最後に用意したもので、小説へのメタに支配された自己言及の多い主体を壊しあらかじめ構想していた別の主体へ自らを移植するために制作したため、単体で独立しているわけではない。筒井康隆「虚人たち」の白紙のページや、スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」に挿入される黒のページや白紙のページ、マーブル模様のページ、そういった、効果を期待して使ったにすぎない。

先行して98年初頭、「ディス・ポルノグラフィ」という完全にタイトルだけの小説を作った。2度目の大きな失明の危機に襲われ入院し、回復しだした頃にノートにシャープペンシルで書いた中編小説で、退院後、ワープロに打ち込み直す過程で、これこそ〈タイトルのみの小説〉を作るチャンスだと思いノートを棄てた。

図形詩、古代ギリシアへ。

図形的な詩の歴史は、紀元前、古代ギリシアにまで遡ります。

古代ギリシアは、地中海周域からインド西部まで広がる区域の総称で、文学の祖ホメロスや三大悲劇詩人、哲学ではソクラテス、プラトン、アリストテレス、物理化学のアルキメデス、エラトステネス、医学の祖ヒポクラテス、幾何学の祖エウクレイデス(ユークリッド)と、人類の源泉で名高く、広大な区域をギリシア語が貫いていました。

人類は、共通の言語を組織する特徴があり、それ以前に、図像をツールとして使ってきました。一、二、三、というただの線を、字として数と関連させる。

偶然でしかない星々を、星座に見立てる。

図像小説「WHITE CANVAS WRITINGS - CAVE DIVER」は、日本語が分からなければ読めないし、実際読まれることを期待しているけれど、日本語が読めなくても、作品を通し、ひと文字ごとの濃度から図像を作れる唯一の言語が日本語だということ自体は、伝達できます。

そこに意味がある、と同時に、別の図像が重ねられている、というメタモルフォーゼ、二重、多重の存在性も伝えることができます。

別の図像から別の図像へ、という一元ではない、視る角度によって容易に姿を変え得るプリズムそのもの、そこからは、メディアへの展開可能性も秘めている、そう考えています。

以前、シュルレアリスムを〈強-現実〉と訳したテキストからのインスピレーションをきっかけとし、日本の前衛詩を追おうとした記事を打ち、それの改訂をnoteにアップしました。

ここで、視覚詩を視野に入れています。

048/999 Guillaume Apollinaire

図像小説「Cave Diver」046から054までの9作は、世界の図像的な詩やそれに類するイメージをトレースしていくシリーズで、これはアポリネール1918年作「エッフェル塔」を模しています。アポリネールの「エッフェル塔」を記憶している人は、同じ図像を通し、あまりにも違う世界、このダイバーの小説に出会えばいい。そこでは、ドイツ人もフランス人も、同じ空間でダイビングしています。

アポリネールは、古代ギリシャから始まる形象詩をカリグラムと名づけた。詩に図像が重なる、それを、幻視的にダブって現れる詩、と自分は考えました。紙片上の面には文字列による意味が広がり、別次元、図像による意味がその意味の広がりを貫いている。仮に違った文字列のエッフェル塔の図像作品が作られた場合、二つの紙片(対象領域)が図像によって連結される。

図像的な詩には、発生順に、形象詩(カリグラム)、空間詩(スパシアリスム / コンストラクション / タイポグラフィと考える)、具体詩(コンクリートポエトリー)、記号詩(セミオティクス)、視覚詩(ヴィジュアル/ヴィジブルポエトリー)と種類があり、すべて意味が違います。

形象詩と空間詩以降の間には深い溝があり、かたや魔術、かたや科学、と正逆のベクトルを持っています。古代か、未来か。読むことのできない視覚詩なんかは、もうAIで作れる、または、デザインの材料に思えるから、コンクリートポエトリーあたりで水平線を走るしかない。

そう考えたとき、魔術側の形象詩まで遡るべきか。

もともと、壺には壺の詩を、と一対一対応していて、それはイコノグラフィから、象形文字の発生まで遡れます。ギリシア語魔術パピルスでは、冥府へのメッセンジャーへの代替物に有効な神の名と文字列を刻みました。スピリチュアルはマインドの図像学といえます。人類を越える科学という環境に対応する人間の最適解が人間のロボット化であるなら、デジタルネイチャーのごとく科学にスピリチュアルを加え「ロボットと化さない人間」の「居場所」の創造が流行るのは必然ですが、同じように、人間が生きられない環境に、人間が生存できる閉鎖空間を作っていくのが、宇宙ロケットや潜水艦。その個人の単位が、テクニカルダイバーだといえます。

宇宙にも深海にも、人自体は別に行かなくてもいいのではないか、という意見は、部屋にいてグーグルマップを見ていればいいのではないか、と同じ話です。出向けるところを越えて出向くべきだし、とはいえ、自分はダイビングを一切せずにテクニカルダイバー小説を作っています。

両極の、どちらかが正しいという話はない。

メビウスの輪を走り続けることはできないが、自分は何よりもそれがしたいのです。幻視的に、意味がダブって現れることを望んでいます。

_underline, 2022.8, リライト10


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