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カフカ、と、AIの覚醒

現代の中東付近、その数千年前、古代オリエントの文学作品『ギルガメシュ叙事詩』の、破損して欠けたテキスト群に魅力を感じている。

不完全を想像すること。

とはいえ、夏目漱石の未完の長編『明暗』を水村美苗が『続明暗』として書き継いだり、伊藤計劃の遺稿を円城塔が書き継いだり、最近でも、死去した三浦建太郎の漫画『ベルセルク』の連載が関係者によって再開したり、未完というのは通常居心地が悪い。自分でも、つくしあきひとの漫画『メイドインアビス』が途中で終わってしまったら虚無の気持ちが残るだろう。

高校時代、フランツ・カフカの『城』を未完だと知らずに読んで、何でもない会話の途中で終わったことに衝撃を受けた。次に読んだ『審判』では末尾に漂う補完群に得体の知れない疑問を抱いた。これが〈文学〉との出会いだった。完成されていないことが最良だとさえ論じられていた。未完や補完を含め〈カフカ文学〉と語る〈文学史〉とはいったい何なのか? そこには、エンターテイメントとは別種の価値観が脈々と流れているようだった。

以下に、「城」の末尾を引用し、当時の気分を思い出したいが、未読の方は飛ばしてもらっていい。引用するだけなので。

「わたしの目的は、美しい衣裳を身につけることだけですわ。あなたは、おばかさんか、子供か、でなければ、腹黒い危険人物だわ。さあ、もう出ていってちょうだい、出ていって!」
 Kは、すでに玄関にいた。ゲルステッカーがまたもや彼の袖口をつかんだとき、お内儀が、彼にむかって叫んだ。
「あす、新しい服ができてくるのよ。もしかしたら、あなたを呼びにやらせるかもしれません」

新潮文庫, 1971(前田敬作訳)

この投稿の文章は、ゼロ年代半ば、インターネットで公開していたものをリライトしている。当時のリンクを下に貼っておく。

別のページでは、ポストモダン〜アヴァンポップと、ジェイムズ・ジョイス稀代の文学『フィネガンズ・ウェイク』についてを、リライトしている。

次のリンク先に『「逮捕+終り」 - 『訴訟』より』と『プラハ カフカの生きた街』の書影。

文学は、幻惑的で、ひりひりとしているから好きだ。


カフカの小説について

1883年、現在のチェコ、プラハで生まれ、1924年に没したドイツ語作家フランツ・カフカは、生前刊行物の段階では、『火父』による受賞歴を持ち、『掟の門前』『変身』『判決(死刑宣告)』『流刑地にて』という重要作を発表ないし刊行し、死の前後の重要作品集『断食芸人』と2つの作品集を世にだしている、そこそこの短編作家だった。

上記から『火父』『変身』『掟の門前』を除いたほぼすべてを収録している日本語訳が『ある流刑地の話』という総題で角川文庫から本野亨一訳で出版されているので、カフカ生前作を俯瞰するのに便利だ。

カフカを文学史上最も重要な作家の一人にまで持ち上げた未完の長編群、とりわけ『審判』と『城』は、死後に刊行されている。

カフカの作品は、青空文庫で代表作が無料で読める。

カフカの小説にネタバレという概念は、ある意味ないと言っていい。そこで、制作順に、ざっくりとレビューし、カフカの雰囲気を確認してみたい。

■は生前発表。

1904 ある戦いの描写(記録)
日本にはない独特のリアリズムのなかで会話が進み(I章、III章)、奇妙に幻想的になり(II章1,2,3-a)、我が物顔のごとく対話を読まされ(II章3-b,c,d)そういった断片群の集積のあり方に対し、この形にしたこと、またはこの形になったこと、それが、ある種の精神的畸形者を肯定しているように感じた。内容に「祈祷者との対話」と「酔いどれとの対話」を含んでいる。カフカを読んでみようと「変身」を購入した角川文庫にカップリングで収録されていたこの短編によって、高校時代、僕はカフカにハマった。

1906 田舎の婚礼準備1908-1910?
長編を予期させる最初期未完作。未読。

■作品集「観察」
18篇の素描のような小品がつらなる短い作品集。

1912.5- 失踪者(アメリカ) / ■火父
未完長編1。生前に発表した素敵な短編『火父』が冒頭。

■1912.9 判決(死刑宣告)
非常に不可解、まさかこんな結末に至るとはという読後感をもたらしながらも、説得力濃厚、命じられるがままに自殺する辺り、実存的命題が濃く感ぜられる。夜から夜明けまでに一気に書き進められた。

1914.8- 審判(訴訟)/ ■掟の門前
未完長編2。わりと変態的で良い。短編『掟の門前』を含む。

■1912.11 変身
アルバム収録曲ではなくシングルカット用に作成されたようなクオリティを放っているのが、どこかカフカらしくないように感じてしまうのは、カフカの抱く文学と、カフカが思う流通業界へのイメージの間にある亀裂かもしれない。

1917.3 万里(シナ)の長城
長編として構想されていたが大幅に破棄され、残されたスケッチがカフカの死後、友人ブロートによってまとめあげられ発表された、という過程を持っている。また、「古い記録(一枚の古いページ)」「皇帝の秘書(皇帝のメッセージ)」の二篇が、独立したかたちで作品集「田舎医者」に収録されている。『万里の長城』論を、中澤英雄の論文収蔵庫で読める。

■1914.10 流刑地にて
かなり好きだけど、風刺作品すぎてページの傍らにイかしたイラストが載っていてもいいなと。BDSM系の雑誌とかに。とはいえ、時代を考えるとそんな軽いノリでは決してなく、この怖さが重要かもしれない。

■1919.11刊行 作品集「田舎医者(村医者)」
14篇の作品が収められているが、ここには「掟の門前」やオドラデクで有名な「父の気がかり(父の心配)」も収録されている他、表題作など読み応えのあるものが多い。「新しい弁護士」「立見席の男」「古い記録」「ジャッカルとアラビア人」「鉱山に来たひとたち」「隣り村」「皇帝の秘書」「十一人の息子」「兄弟殺し」「夢」「ある学士院への報告」。

1922.1- 城
未完長編3。10代の頃に読んだ印象では、どんどん城に近づいていく興奮があった。霧のなかを彷徨っているかのよう。

■1922.2 断食芸人(飢餓術師)
友人ブロートに伝えたカフカの遺言はこの作品の完成後だった。これを表題にして「最初の悩み」「小さな女」「ヨゼフィーネという歌手、または、ねずみ族物語」の計4作収録の作品集の校正をカフカは病床で行い、死後(1924年)の夏に刊行されている。「ヨゼフィーネ」を別として、最初の三作はメドレーのようにカフカの関心のポイントが似ている。そこでは表題作「断食芸人」がやはり最も煮詰められている感があるというかハードコア。リアリズムを舞台にある種の精神的畸形者、つまり異端者の立場が切るような独白で考察されている。

1922.7 ある犬の研究
威勢のいい、ある犬による論考形式なので、別の犬との会話がなされるくだりでは思わずハッとしてしまうほどなのだけど、途中、空中犬なども登場し面白い。《土地はどこからわたしたちの栄養分を手に入れるのか》という前半の時代考証から、話者である犬自身の実践へ進み、断食を経て音楽論が語られていく。様々な象徴が用いられ、カフカの芸術観(反芸術観)が示されていく。おしゃれにアニメ化してほしい。

1923-1924 巣穴(家)
巣穴という訳に抵抗があり、qfwfqの水に流して Una pietra sopra を参考に古本購入、新潮社旧版カフカ全集(1953)板倉鞆音訳『家』の方で読む。サミュエル・ベケットの小説を読んでいるような動きの少ない独白。後述。

■1924 ヨゼフィーネという歌手、または、ねずみ族物語
「ヨゼフィーネ」が(これが収録されている作品集の)他作と違うところは、ある種の異端者を「その一族の側」から価値を訴えるかのように語るスタイルをとっていることだ。ヨゼフィーネという歌手は歌ではなくまるで口笛のように歌い続ける(正確には口笛でさえない)。マルセル・デュシャンがいうところのアンフラマンス(極薄)に類する考察だ。既成の芸術からはみだしたそれを積み上げていく前半から後半へ移ると、まるでノイズ論のように抽象化し、時代の急速な変貌があったゆえに前時代との断絶が生じていることを寓話化したような内容にもとれ、終盤、話者がヨゼフィーネの変貌を追うかたちとなり、悲劇的に終わる。「断食芸人」他のリアリズム下にいる話者が語る物語をここから読み返せば、様々に補われるはずだ。この補完可能性を考えるなら、カフカはまだこの時点では終わっていない。

プラハ、望郷

『プラハ カフカの生きた街』(PARCO出版 / 増田幸弘 / 1993)という素晴らしい旅行ガイドブックがある。カフカからミラン・クンデラまでプラハにゆかりの文学を辿ったあと、住所付きで建築物など名所が紹介され、巻末にプラハ市街地図やメトロ路線図がついている。

プラハはどこか、歩いてもいない望郷だ。

出向いた人の話を聞いてもそのまんまのイメージらしい。

カフカの小説から、プラハの描写が幾つか紹介されている。

おれは、逃げなくちゃならない。これは、造作もないことだ。いまここを左にまがればカール橋(カレル橋)だが、右にまがればカール小路(カルロヴァ通り)にとびこめる。この通りは、まがりくねっているうえに、うす暗い家の戸口やまだ店をあけている居酒屋がある。

「ある戦いの描写」

やがて別の、かなりうす暗い広場のところへきた。かれらが歩いている側の家並みのほうがはやくとぎれて、広場になる。通りの反対がわの家並みは、もうすこし先まで突きでていた。広場のこちらの縁にそってそのまま歩いていくと、ひとつづきに軒をつらねた一区画があり、その両端のところから、こんどは二列の家並みが伸びて、最初はかなり離れているが、ぼんやりかすんだ遠くのほうで一つになっているらしい。歩道はせまく、立ちならんだ家屋もたいてい小さい。商店はみあたらず、馬車も走っていない。かれらが抜けてきた裏通りのはずれに、一本の鉄柱があって、数個の街灯がついていた。

田舎の婚礼準備

カフカの小説の魅力の一つは、彷徨い歩く異想的な空間の背景に、実体験としてのプラハの街並みがあるところだ。

カフカは遊び人なのか

高校時代、カフカの小説に出会った僕は、生涯において最初で最後かもしれないと強く思うほど共鳴を感じ、日記や手紙を除いて片っ端から読んでいった。そして、カフカについての文章を読んでいくに従って、同じエピソード(カフカ的迷宮、オドラデクの良さを語った文章、アフォリズムなど)が繰り返されることにだんだん疲れて、もしかすれば〈作家カフカ〉はアウトプット数の少ない小メディアなのかもしれないと思うようになり始めた。

時が経って2001年、『ユリイカ』がカフカ特集を組んだとき、疑念の確認をするために手にとり、池内紀「二人のカフカ」を読んで、改めてカフカに興味を抱くようになった。

たとえばブロートはサラリーマンとしてのカフカを知らなかった。(……)彼が知っていたのはプラハやベルリンやライプツィヒのカフェやサロンや編集室や劇場である。ブロートひとりにかぎらず、それはすべて同時代の作家や詩人たちの小世界だった。いっぽう、フランツ・カフカはおよそ異質の世界を知っていた。(……)おりしも巨大産業の勃興期であって、大半の実業家が一代で成り上がった者たちだった。みずから「織物王」「石けん王」「自動車王」などと称し、そんな名称をよろこんだ。この種のタイプにおなじみだが、押しが強く、世間知にたけ、豪放のようで小心、狸のような太鼓腹と、ズル狐の狡知をそなえている。カフカが相手にしたのは、このような人物だった。彼らが時代を動かしていた。カフカはまさにとめどない産業化の現場そのものに立ち会っていた。

ユリイカ 2001.3

2022年、オーソン・ウェルズの魔術的映像による1962年『審判』映画化を再見し、この原作の小説は実は暴露小説なのではないかと想像した。さらに、女たちと自然に性的に接する主人公を見て、カフカは女慣れしてるのではないかと感じた。よくフェリーツェやミレナへの多数のややこしい手紙が引き合いに出されるため勘違いしていたが、むしろ、女が好きすぎて罪を感じてこじらせている快楽主義ではないかとすら妄想してしまった。

ブロートはまた休暇中のカフカを知らなかった。(……)ブロートが家庭をもって以後、カフカは休暇ごとに一人旅をした。行き先はきまっていた。サナトリウムである。(……)巨大な工業群ときびすを接するようにして、各地に大きなサナトリウムが生まれていた。きまって自然療法をうたっており、水浴や体操、日光浴、山野を歩くことがプログラムになっていた。(……)各地のサナトリウムでカフカがきまってくり返したのは恋愛である。(……)幼い娘のときもあれば人妻の場合もあった。(……)カフカは保養地の恋をプラハには持ち帰らなかった。おおかた記憶にとどめるだけにした。それでもシレジアで知り合った女性とは、短期間だが婚約するまでになった。バルト海で知り合った人とは数カ月、生活をともにして、カフカの死にも立ち会った。

ユリイカ 2001.3

夜の街の快楽主義者たちは、おおむね皆、孤独を流離っている。

文学は覚醒のリアリズムである

頭木弘樹『「逮捕+終り」 - 『訴訟』より』(創樹社)という1999年刊行の本はやたらと装幀がいい。ブックカバーを外すとふわふわした素材があしらわれ、1600円とは到底思えない本だ。

これについて編集人が「装幀について」という文章で〈現在の一般的な本の装幀〉に不満を述べ、さらに「to the happy few」という文章でいい本をともに創ろうという趣旨のことを読者(つまりは買い手)に呼びかけている。そういう部分も含めて興味深い本だと思う。

この本は頭木弘樹による『審判』からの抄訳に訳者解説を加えたもの(どちらかというとその逆である印象が強い)だが、1990年になって公開されたカフカ『審判』の生原稿に基づく。1990年といえばすでに批判版カフカ全集が出版されている時代で、この『審判』の生原稿は1988年に競売にかけられるまで《大きな謎を残したまま、姿を現さなかった》そうだ。

この本でも、自分が高校時代に体験した、と前述した〈文学〉との出会いが垣間見られる。〈文学〉の人たちは、いったい何をしているのか? 〈彼ら〉は小説を、どこまでも緻密に研究していく。

カフカの作品群を順に追っていくと、次のようにややこしくなっていく。(1) カフカ生前公開作品。 (2)カフカに焼却を託されたマックス・ブロートが編集した全集'1935-(ブロート版カフカ全集/新潮社の全集の底本)そして、ブロートの死後に解放された手稿に忠実たらんとした (3) 批判版の3つに分かれ、最後の批判版は、◆批判版カフカ全集'1982-(池内紀訳全集-白水社/白水Uブックス-の底本/2000-2002)◆史的批判版カフカ全集'1997-の二つに別れている。

「変身,掟の前で 他2編(光文社古典新訳文庫/丘沢静也/2007)」は史的批判版を底本として、その解説では池内訳を批判している。

池内紀訳の〈良さ〉はepi の十年千冊。を読めば多少理解できると思う。池内訳は読者幼年期に重要かもしれない(メタファーだけれど、童話は必ずしも子供のために書かれているものばかりではない)。

フィクションの翻訳において読者青年期には、ひたすらマシンのように忠実たらんとする丘沢静也訳のようなスタイルがいいだろう。

大人の読者は、邦訳に頼らず原書を読まなければならない、とするなら逆説的に、日本語的解釈された邦訳も、マシン的解釈された邦訳も、ともに魅力を持つ。ただ、邦訳とはいえカフカその文章に近いところにいたいため、池内紀訳をこのページでは避けている。「カフカ・セレクション(ちくま文庫/平野嘉彦 ,柴田翔,浅井健二郎/2008)」は、それぞれ時空/認知、運動/拘束、異形/寓意、というポイントを設定し分冊しているため、マシン的解釈というよりは日本語的解釈に属していると思う。それは、カフカを読みたいというよりは、もっとカフカを読みたいという玄人的な翻訳だ。カフカに違った角度を与えたいという思いは共感するが、これも外して考えている。

さて、頭木弘樹訳「「逮捕+終り」-『訴訟』より」という本そのものについてだが、まず2段組の小さい字で80ページ以上ある訳者解説が面白い。そこで最も分量が費やされ語られているのは、訳者が考える文学論だ。

そのとき、自分は、AIが頭によぎる。

安部公房、クンデラ、ロブ=グリエ、ナボコフらの言葉を幾度も引用しながら、文学とは、捉えられていない現実を捉えるためにあり、既成の現実観を壊す運動だ、つまり、文学はリアリズムに属していて、覚醒のためにあるのだ、という解釈をしていて、これまでいかにカフカが論じられてきたかをざっと確かめている。

宗教的解釈(ユダヤ問題や城の神学化など)
精神分析的解釈(父との関係など)
哲学的解釈(実存主義との関連など)
作家論的解釈(「審判」はカフカが体験した婚約事件が礎にある、暗号化された私小説だ、など)
予言的解釈(のちの全体主義国家を先取ったなど)
カフカ化解釈(迷宮、不条理、エトセトラ)

本書での文学論はとても良い。唯一ひっかかるのが、頭木弘樹は極端にテクスト完結派の立場をとっている。そこだけだ。もし当時の時代背景等と関係がなかったら、未完の長編「審判」の章を一つ完成させるたびにパンフレットとしてカフカは配っていたかもしれないし(今ならアップデートと称しただろう)そもそも小説なんか一切手がけずにサナトリウムという娯楽施設で恋ばかりしていたかもしれない。

カフカにとって文学は覚醒のためのリアリズムだった、ゆえに、現実模倣と同一ではない、という展開をした場合の時空間じゃあ、作家による創造など生じないし、それだけのことであるなら文学は機械に任せてもいい(つまり必ずしも人間がするべき仕事ではない)。つまり、テクスト完結派は、商業主義と手を組んだエンターテイメントのベクトルを最終的に回避できない。それは、読み手側の文学観だからだ。

訳者解説の、文学論以外の個所では、生原稿とそれを翻訳したことについてが語られている。宗教性の高い「審判」よりも原題に近い「訴訟」を当てたこと、生原稿はブロート版と決定的な違いはないこと、それでもこれまで訳されなかった一文などが多くありそれを忠実に訳したこと。より面白いのは、この本が、最初と終りだけを翻訳している理由だ。

とても魅力的な終りに辿り着く前に読むのをやめた読者が多くいると聞いたから、カフカが終りを設定してから半ばを作っていったから、そう述べているけれど、この辺のことに一番関心がある。

なぜなら、結局は、カフカが決定稿を作らず、手稿を「焼き捨ててくれ」と友人のマックス・ブロートに預けてしまったのが原因だからだ。

多くの人がカフカを『城』や『審判』なども込みの作家として解釈しているが、1913年のカフカの日記をそのまま使ってしまうなら、《私とは文学にほかならないのです。それ以外の何ものでもありえないし、あろうとも思いません》と述べるカフカの、生前発表された〈作家〉像は、最初はエッセンス的なものを、やがてコンテンツ的なものを作りだしていく業界への真っ当さに他ならず、それは、カフカが信じる〈文学〉とはこころなしか隔てられているのだということを、はっきりさせたい、というより、そのことが思われている以上に重要だという視点から、織り込んで一人の作家カフカを捉えなければならないように僕は思ったのだ。

虚像は技術の一つである

1920年。カフカ36歳。『流刑地にて』が発表され、まだ『城』に取りかかる前のところから、グスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳(1967)は始まる(増補版もあとに邦訳刊行されている)。

ヤノーホは17歳。詩を書き、カフカの『変身』に魅了されている。

ヤノーホは、のちに第二次世界大戦で抵抗運動に加わり、1946年に旧政府の役員によって13か月、パンクラーツ刑務所に収容され、その翌年44歳、この「カフカとの対話」の原型となる当時の日記をまとめ始め、1951年に刊行した。カフカ関連でこの本が一番好きだ。

ドクトル・カフカはフランツ・カフカを指す。

はじめてドクトル・カフカを訪ねたころ、私は彼の発言に対して、よく驚きの問いで応えたものである。「本当ですか、それは」と。それに対してドクトル・カフカは、最初のうちはちょっとうなずいて答えるだけであった。しかしそれから附合いも少し永くなって、相変わらず私が驚きを表わすのに判で押したような疑問の言葉を使うので、彼はこう言ったことがある。「(……)つまり虚像は――すべての技術がそうであるように――人間の一切の力を要求する技術の一つなのです。虚言に人は全身全霊を捧げなければならないし、それをまず自分自身で信じねばなりません。そうしてはじめて、虚言でもって他人を説得できるのです。虚言は情熱の火を必要とします。この情熱によってそれは、しかし物事を隠すよりもむしろ露わにするのです。これは私の力に及ばない。だから私にとっては、ただ一つの隠れ蓑――真実があるだけなのです」

カフカ自身の証言をさらに引用してみたい。

「しかし真実以上に大きい秘密があるでしょうか。文学はつねに真実をもとめる探検行にすぎないのです」
「けれども真実とは何でしょう」
 カフカは一瞬口を噤んだかと思うと、悪戯っぽい微笑をうかべた。
「(……)すべての人間が生活のために必要としていても、しかし何人からも貰ったり買ったりできぬものが真実です。人間は一人一人が、自らの内部から真実を絶えず生み出さねばならぬ。さもなければ死滅するのです。真実なき生活は不可能です。おそらく真実とは、生活そのものかも知れません」

「文学は濃縮です。エッセンスです。これに反し文芸は溶解です。没意識の生活を容易にする嗜好品、麻酔剤です」
「で文学は」
「文学はまさに正反対です。文学は覚醒します」
「では文学は宗教に傾きます」
「そこまで私は言おうとは思わない。ただ確かなことは、祈りに傾くということです」

*「カフカとの対話」では、Dichtungを文学、Literaturを文芸と訳し分けている(この場合文芸とは、芸能としての文学というほどの積りである)

「あなたは、チェコのアナキストたちを真面目にはお考えにならないのですね」
 カフカは当惑して微笑んだ。
「大へん厄介な問題です。アナキストと自称するこの人たちは気持ちのよい、愛すべき人たちです。だから、彼らの言葉をすっかり信じたくなる。同時にしかし――まさしく彼らのこの性格のために――この人たちが自ら主張するような世界破壊者たり得る、とは信じられないのです」
「では彼らを個人的に御存知なのですね」
「少しはね。じつに愛すべき、陽気な人たちです」

何もかも滅茶々々だとしたら、それだけでもすでに私たちは、一つの新しい発展の可能性の入口に達したことになるでしょう。しかしそこまで私たちは到達してはいない。われわれをここまで導いて来た道は跡形もなくなりました。それと共にこれまでの共通な未来の見通しも、すべて消えてしまいました。われわれが体験するのはまず希望もなく突進するくらいのことにすぎません。窓から見れば世界が眺められます。どこへあの人たちは走ってゆくのか。何を望んでいるのか。われわれはもののもつ超個人的な意味の連鎖をもはや知ることはできない。雑香のなかで、しかも銘々が黙って自分のなかに孤絶するのです。(……)われわれが住んでいるのは滅茶滅茶に破壊された-ツェアシュテールト-世界ではなく錯乱した-フェアシュテールト-世界です

2022年、ここまでをまとめるにあたり、未読だったカフカの小説「家」を読んでいて、対象作品は何でもいいけれど、AIの技術で文学を作るのは無理ではないかと考えた。それこそ、すでに存在する「家」に似せた小説をAIで作るのは容易だろう。だが、そういうのを型通りという。カフカのいうLiteratur(文芸)にAIが合っても、Dichtung(文学)が著者側の覚醒であり、著者側の覚醒を読者が受け取る〈手紙〉が文学作品だというコミュニケーションツールである以上、文学をAIが作るなら、覚醒に至るまでの、覚醒を必要と信じるまでの、積み重なった道筋を、あえて構築する必要がある。

そう考えたとき、SF作家スタニスワフ・レム『虚数』(1973) 収録、架空の天才コンピューターの講義「GOLEM 14」のようなものを、近い未来にAIが打ち出してくるのではとも思う。インプットし回路を経てアウトプットした60年代クラウゼ/シャウトのテクスト、コンピューター叙情詩のようなものは意識のない無意識であり、そういうものは究極、幾枚かのカードを猿に渡して投げさせても完成する条件反射的な残照だ。そういう残照を受けても、読者は文学として感動しない。

AI文学は、AIがいかにして覚醒するのか、が問われている。

自分のカフカ文学との出会いは、精神的畸形者の肯定、未完成を包み込むリアリズムに則した世界観(カフカ的迷宮)だったが、かつて、再読したとき、アレハンドロ・ホドロフスキーが『エンドレス・ポエトリー』監督作品内でレジスタンスから離れヨーロッパへ旅立つような、覚醒という文学、そこに最も刺激を受けた。

小説としての文学は、20世紀までのツールではないかとよく言われている。『家』では、J.K.ユイスマンス『さかしま』の主役デゼッサントを遥かに越えて世間との隔絶を実行しているが、現代ならその閉じた世界でインターネットに繋ぎモラトリアムに堕ちるのか。

当然、回線も遮断するだろう。

そこに何があるのか。

カフカは、41歳を迎える直前に結核で命を落とした。とても早い。『家』の前後作、『断食芸人』『ある犬の研究』『ヨゼフィーネという歌手、または、ねずみ族物語』から、展開を想像するしかない。

フランツ・カフカという作家は、そういう意味で未完だ。読者の方で、続きを想像しなければ居心地の悪い、未完の作家だった。

_underline, 2006年前後, Rewrite in 2022


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