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最期にはせめてしあわせだったと笑ってほしい。

終活について最近ふと考えた。

わたしはねこたちがいずれお骨になって、自分の人生を全うした時にそのお骨たちと一緒に供養されたい。
なのでペットと納骨してもらえる納骨堂を探しているのですが、これがなかなか難しいのですよね。
納骨堂もずっと営業できるわけじゃないと分かってしまって、家族には迷惑はかけたくないし、いっそ散骨でもしてもらえた方が楽なのかしら。なんて思う今日この頃。

わたしに結婚は無理なんだろうなあって考えはじめて、死を意識して、そんなことを思うようになった。
思えば寂しい人生ばかり送ってきた。自分がとびきり不幸だとは思わないけれど、可哀想だなとは思う。

幸せな家庭で生きてきた人の枷になりたくなくって。
同じように寂しい人生を送ってきた人とどうやったら巡り会えるのかは分からなくて。
結局、わたしはひとりで生きていくしかないんだろうなって思った。

少しずつ身の回りのものを捨てている。
大事だったはずなのに、いつの間にかお気に入りだった洋服や靴、心の支えにしていたはずのもの、推しのグッズとか、好きだったはずの趣味の道具まで手放していた。
必要最低限のものだけ手元に残ってる。
それでもまだ捨てなくちゃと思う。

わたしが死んでもみんなに迷惑かけたくなくて。
でも、わたしだってせめて最低限の暮らしはしていきたくて。

ただ寝て、起きて、食事をして、家事をして、何もなく生きてくだけなんてあまりにわたしが可哀想で。
好きなもの、好きなことをして、好きに生きていたい。
きっと誰かと生きていくことはわたしにはできないから、せめてそれくらいはさせてほしい。
わがままでごめんね。

最低限と、ほんの少しの好きだけ残して、あとは全部手放して。
いつ死んでもいいように、準備だけはしておこうって思った。
これはわたしなりの終活だ。

産まれてきてごめん、生きててごめん。
でもなるべく迷惑かけないよう、ひとりでも生きていくから。

どうかこれくらいは許して欲しい。

ねこたちを看取って、少しずつものを手放して、最期までひとりできっと生きていくから。
人生を全うしたら、お父ちゃんにまた会えるのかな。天国で待っててくれるのかな。
頑張ったねって褒めてくれるかな。

死んだ後お父ちゃんに会いたい、わたしを大事って言ってくれる人を悲しませたくない、周りに迷惑かけたくない、ねこを看取りたい。
死ねない理由なんていくらでもある。
だから大丈夫、生きていける。

わたしが死んだ時、少しでも美談として誰かの心の片隅に残してもらえる人生で終われたらそれだけで十分だ。

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