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きっとあの日も海は青かったー平和祈念資料館(沖縄旅 vol.2)

沖縄旅行の目的の1つに、沖縄戦を学ぶことがあった。教科書やTVドラマを通じてなんとなく知っていた沖縄戦だったけど、ちきりんさんのvoicyを聞いて、「これはきちんと学ばないといけない」と思ったのがきっかけだった。

ちなみに資料館や防空壕後へ行くことを滞在先のホステルのオーナー夫婦に伝えると、「私のおじぃも戦争で亡くなった」「学んでくれて、ありがとうね」と言われた。こちらこそ、30年も生きてきて知らずにごめんなさい…という気持ちになった。

バスを乗り継いで平和祈念資料館へ

那覇から平和祈念資料館へは、バスを2本ほど乗り継いで2時間ほど。資料館の前を通るバスは1時間に1本(というか、沖縄では中心部以外はこんな感じ)

資料館は平和祈念公園のなかにあり、公園は青々としてとても穏やか。資料館では撮影できなかったので、つらつらと印象的だったことを書いていく。

移民としての沖縄人

第二次世界大戦の前夜、1930年代に政府は太平洋島嶼国(サイパン、パラオなど)へ沖縄県民を含む日本人を移民として送り、彼らを労働力として島の開拓を進めていった。島によっては日本人が現地人を上回るほどだったという。そして開戦すると移民たちは戦闘に巻き込まれ、その多くは弾に倒れる、あるいは自決や飢餓で亡くなった。

自分の国(琉球)でもなければ、アイデンティティ(琉球人)も奪われ、全く知らない土地で命を落とした人が数多くいた。その事実に唖然とするしかなかった。

教科書から見る各国の戦争に対する捉え方

歴史の教科書についてはニュースでしばし話題になるけど、あまりピンと来てなかった。けれど資料館の一角に展示された、各国の教科書における戦争に対する記述を比べると、「あぁ、なるほどな…」となった。詳しくは書かないけど、簡単に書くと日本・アジア諸国・アメリカ、それぞれ書き方が全く異なるということ。

何が正解などはないけれど、アメリカ的な記述を日本ができたら、一歩進めたといえるのかもしれない。

数字で見る沖縄戦のむごさ

最後に、資料館で紹介されていた沖縄戦の「数」も衝撃的だった。

住民一人あたりの爆撃数=50発
沖縄戦での死者数=20万
うち沖縄県民=12万(つまり4人に1人が亡くなった)

本土に上陸させてないため沖縄を使い尽くすし、戦後はアメリカの占領を許した日本。戦後は沖縄出身だといえば差別され、アメリカ軍は何もやっても咎められない日が続いた。

なぜこうなってしまったのか。こうしたのは日本軍だけど、彼らだけなのか。日本にも”アイヒマン"が沢山いたのではないか……そんな、どうにもならない気持ちになった。

きっとあの日も海は青かった

資料館の見学を終えて「これが人間の為すことか?」という気持ちと同時に、沖縄の悲惨さを感じた。この島は、200年にわたって国際政治に翻弄され続けている。

どうしようもない気持ちで資料館を出ると、そこには海が広がっていた。人々が血を流し、沖縄が赤く染まった日でさえ、きっと海は青かった。

資料館の出口から見える景色

沖縄戦で亡くなった人は亡骸がないことも多い。そこで記念品公園が彼らのお墓にもなっており、訪問した際も地元の方が自身の家族の名前が刻まれた石碑の前で祈っていた。

ある一角では、腰の曲がったおばあさんが海苔巻きと揚げ物をお供えしていた。一方では、車椅子の男性が1人で静かに石碑を見つめていた。きっと家族と来たのだろうけど、あえて1人なのかもしれない。

石碑には沖縄県民だけでなく、本土から動員された人や外国人の名前も刻まれていた。その数、20万。名前と場所を探しやすいように検索機さえ設置されていた。沖縄の終戦日(6/23)は、多くの人が訪れるという。

本当は同じ日にひめゆりの塔やガマ(防空壕)に行こうと思ったけど、資料館での学びと衝撃が多すぎてこの日はゆっくりとホステルに戻った。

人間とはなにものか?

この経験をしても私はきっと何もできない。ただ戦争をする人間の恐ろしさと、石碑で祈りをする人々の無垢さを思い出し、胸が張り裂けそうになるだけだ。

そしてヴィクトール・フランクルが『夜と霧』で説いた一節を思い出さずにはいられなかった。

では、この人間とはなにものか。
人間とは、なにかをつねに決定する存在だ。
人間とは、ガス室を発明した存在だ。
しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを
口にする存在でもあるのだ。

ヴィクトール・フランクル『夜と霧』より


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