数秘
いつも、数秘7と数秘9の間で彷徨っている。その間はひどく混沌としていて、自分でもどっちに行ったらいいのかはわかっているけど、わからない。
数秘という、インド発(?)の占いみたいなものがある。誕生日や名前から、数秘と呼ばれる番号を割り出し、その番号それぞれに説明がついている。例えば、数秘7は合理主義で完璧主義、数秘9は柔軟で寛容、相手に合わせるけど相手に興味は案外ない、数秘2は協調性があって聞き上手、悪く言えば受身・・・などなど。そして、「考え方」「行動」「周りからの印象」とか、色んなカテゴリーにおいてその数がつけられている。
単なる性格診断だし、きっと統計に過ぎないのだけれど、私の場合、妙にこの数秘に囚われてしまうのだ。
この数秘占いによると、私は考え方が数秘7、行動が数秘9、最終的に陥るのが数秘2、だ。つまり、心の中では色々考えていて、これやる意味あるの?とか、私はこれがやりたい、がたくさんあるのに、行動するときは他人に結局合わせたり、誰かが自分に迷惑をかけても許してしまう。そして面倒くさいのがここからで、そういう私は、行動が考えにマッチしていないときに、まあいいや、とならないことだ。あれ、自分のやりたかったこれできてないな、それって私がこんな行動していたからだな、誰かに合わせて行動なんてするんじゃなかった、という後悔の後に、いやいやそんなこと考えるってなんて冷たい人間なんだ私は、と自己嫌悪に陥るのだ。
実家によく帰省する。それは、両親に顔を見せたいとか、仕事が大変そうだから帰って少しでも家事とか手伝えたらいいし、毎日ため息じゃなくて笑顔でいてほしいとか、そういう思いで帰る。でも時々、大学での生活に少し疲れたから、という理由で帰ることもある。友達とのご飯会を断るときの、罪悪感がちょっとでも少ない言い訳になるのだ、帰省だから無理ごめん、って言えば。
なのに、帰省する時の荷物はいつもぱんぱんだ。その荷物はお土産とかおしゃれな服じゃなくて、大学でやろうと思ってできなかった課題とか読書とか、次の進路に向けた勉強とか、そういうものがぱんぱんに詰まっているのだ。でもだからといって帰省中にリュックの中身を片付けられるわけでもない。なんだかんだ、親とおしゃべりしたり料理を手伝ったり一緒にテレビを見たり、そうして、だらだらと時間は流れてしまう。
いつも、帰省前はワクワクで、帰省中はこれで最後にしようと思い、帰省後はもっと居ればよかったごめんまた来よう、といつも思う。
姉がいる。姉には一年に満たない赤ちゃんがいる。それは本当にもう可愛くて愛おしい。姉の初めての子だから、というかいや、子育ては色んな人の助けがないと成り立たないと思うから、普段は離れて暮らしているけど、よく実家にその姪っ子赤ちゃんを連れて遊びにくる。私が帰省したタイミングも必ず顔を出してくれる。毎回顔を見るたびに大きく成長していて、本当に驚かされる。赤ちゃんは見ていて飽きない。笑顔も泣き顔も本当に可愛らしいし、いつも懸命に生きている。
でも昨日、姉や姪っ子と過ごしながら、ぱんぱんに詰まったリュックの中身が心によぎった。
姉も赤ちゃんも悪いわけでは決してない。泣き止まない赤ちゃんとずっと家に籠っていれば気が狂いそうになるだろうから、姉が実家に来るのは、両親や私のためというのもあるけれど、姉自身のため、という部分もあると思う。かといって赤ちゃんだってたくさん泣いてたくさん人の愛に触れるべき存在だから、赤ちゃんが悪いわけでも決してない。そういうものなのだ。
赤ちゃんを抱かせてもらいながらそんなことを考える。考えてしまう。本当は目の前にいる小さくて脆くて強くて生命力に溢れている、この不思議な存在と、そんなことを考えながら、心でため息をつきながら接するべきではないはずだ。何も考えず無邪気に戯れるべきだし、そうしていたいのだ。
本当は、誰かと過ごす時間を、思いっきり心ゆくまで楽しみたい。
でも自分で過ごす時間、やろうと決めたことをやる時間も、きちんと大切にしたい。
その折り合いをつけるのが下手くそで、両方とも楽しめていない自分に苛立ちが募る。
母が夕飯の支度をするのを手伝う、家族で食卓を囲む、赤ちゃんを抱く、
そういう時に、数秘7がぱんぱんに詰まったリュックを持ってくる。
時間を決めて、何時になったら勉強する、とか、赤ちゃんが寝てしまったら読書でもすればいいかな、とも思う。でも隣に誰かがいると、一気にそれができない。
そういう風にして、数秘7と数秘9の間で私はよく悩む。
なんだかなぜこんなことを書いているのか、よくわからなくなってきた。でも、こんなことを姉に伝えたら、じゃあ実家に来るなんてしなければよかった、と思わせるはずだ。ごめん。そういうわけではないのだ、決して。でもそう思わせてしまうのはもっともである。
と、まあここまで書いてきて、ずいぶんとぐちゃぐちゃで、言い訳じみていて、まるで他人に寄り添ってほしいと声を大にして言いたいけれど言えない、それさえ無言で気がついてほしい、と言っているような、まるで赤ちゃんのような人間だな私は、と思った。いや、お腹が空いたら泣く、眠たかったら泣く、お母さんがいなかったらギャン泣く、ってちゃんと主張する赤ちゃんの方がよっぽど大人かもしれない。赤ちゃんが大人、って変な感じだけど。
私は社会的にみたらもう大人の仲間入りだ。そういう年齢だ。そういう私はきっと、自分で全てを決めていかなければならない。「ほら、勉強する時間だよ」「今はみんなで一緒にご飯を食べようね」って言われて動くような人間ではなくて、今私がすべきことを、したいことを、すべきなのだ。誰かと時間を過ごすことも、上手に自分の中で折り合いをつけながらやっていく必要がある。全て、自己判断、自己責任なのである。
と考えると、人間って結局ひとりぼっちなんだな、と思う。それがすごく寂しくて、本当にそうなの?と、問いたくなるけれど、きっと、そうなのだ。子どもはどうかわからないけれど、少なくとも大人は、やるべきことがある人は、自分の判断で自分の日々の選択をしていかなければならない。
そしてそれは、誰かと一緒にいるという選択肢はもちろん、誰かと一緒にいないという選択肢、その両方があって、自分が選んだ選択肢も他人が選んだ選択肢も、それとして受け入れ、尊重すべきだと思う。いや、誰かにそうやって強要するから私はきっと苦しくなっている。私は尊重しているのに相手が尊重してくれない、と。だから、私はそういうのを尊重したい、ってそのぐらいにしておこう。
そしてやっぱり今少し思ったけれど、人間は結局ひとりぼっちとは言い切りたくない。どこかで繋がっていると思うし、繋がっていたい。どこかで一緒にあるだろうし、一緒にありたい。
物理的・空間的にも、精神的にも。
数秘7と数秘9で悩む私は、きっとどちらかを捨ててもう一方に偏りたいのではない。
7も9も共存できる道を、探している。
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ちなみに写真は姉が買ってきてくれたケーキ。
一家団欒、snagoh(スペル合ってるか自信ない)、hugge、fika、
色々あるけど、そういう時間って好きだなぁ。