心臓が ん゜ぎょえェーっ ってなった音楽 アメリカ民謡研究会 『精神に対する妙な考え。』
一体本物の「私」は
どこにいってしまったんでしょう!
「私」とは何によって定められるのでしょう!
(アメリカ民謡研究会『精神に対する妙な考え。』より)
私たちは社会の中で生きています。飲み、食い、話し、働き、寝る。何の変哲もないこれらの行為を無自覚にしています。
しかし、こう考えることはできないでしょうか。
私たちは私たちのロールプレイングをしている、と。
1.「私」の根拠
馬鹿げた考えではあります。私のふりをしている私なんて、そもそも意味不明かつ支離滅裂です。私はどこにあろうとも何であろうとも不変である。誰しも個性と呼ばれる、私を裏付けるアイデンティティがあり、それは天性のものである。そう教えられてきましたし思い込んでいます。強い確信を持たなくとも、無意識で自覚しています。
しかし、そう考えるとつじつまが合わないことが出てきます。
例えば、親と一緒にいるときに友達にばったり出くわしたとき。あなたは中高生だったとします。すると、あなたはどうにかしてすぐに立ち去ろうとするでしょう。それはおそらく、あなたのいわゆる「キャラクター」が親と友だちの前で違うから。
例えば、SNSでの投稿と現実での発言。その2つをとってしても、大きく差があるでしょう。私もそうです。
もちろん、適材適所で使い分けているだけであって、個性を持っているかどうかには関係ないのかもしれません。個性を一時的に隠している、とも言えるかもしれません。
では、あなたが異世界に転生して、「ロジェ・エル・モロー」という王侯貴族になったとします。(「すごい名前生成器」より)この時、あなたはあなたで振る舞い続ける訳にはいきません。生きるためにあなたは「ロジェ・エル・モロー」になりきるでしょう。そしていつの日か、あなたと「ロジェ・エル・モロー」が同化する瞬間がやってくる。
その時の「あなた」は、現代世界での「あなた」でしょうか?異世界での「ロジェ・エル・モロー」でしょうか?
この例が指し示すのは以下のことである:
「私」は(いともたやすく)外的要因によって変化する。
2.「私」の拠り所
ところで、私たちは生きています。(生きているはずです!)
その中で、精神の拠り所にしているものがあります。家族・友人・友達・趣味…。
もちろん、それらにはアイデンティティ、すなわち「私」を裏付ける個性があります。自分が自分であるという確信が精神の支柱となっているわけです。
ここで考えてみましょう。
私たちの拠り所にするアイデンティティが容易に崩れ落ちることが証明されました。
では、私たちは何を拠り所にすればいいのでしょうか。
家族・恋人・友達?
―「私」が崩れ落ちたときに隣にいる保証は皆無です。
趣味?
―簡単に崩れる「私」の嗜好は拠り所にするには不安定すぎる。
もう一度考えます。私たちは何を拠り所にすればいいのでしょうか。
実は、自分を自分たりえる証明をする要素は皆無なんです。
我思う故に我あり、でしょうか?
すると私が思わなければ、否定すれば「私」は私ではなくなるでしょう。
そんな馬鹿な話はありません。
否定しようとも、
肯定しようとも、
辟易しようとも、
没頭しようとも、
「私」は私です。
3.私の所在
では、「私」はどこにあるのでしょうか?
我思う故に我あり、は否定しました。では、逆転の発想です。
人思う故に我あり、ではありませんか。
逆説に見えますが、あながち間違いではないのかもしれません。
初めに戻りましょう。
「私」は外的要因によって変化する。
すなわち、「私」を構成するものは外的要因です。
このことから、「私」は自分以外のすべてのものによって定められると言えましょう。
4.精神に対する私の結論。
問:「『私』とは何によって定められるのか」
答:「「私」は私以外のものによって定められる」
これによって私の答えは終了です。
機械音によって人間の所在の問題提起されるなんて、皮肉なものですね。
いえ、もしかしたら、ひょっとしたらの話ですが。これが正しいと仮定するならば、懸念事項があります。
それは、自分の居場所を失ったときです。周りから除外された瞬間、自分を構成する外的要因を大きく失うことになります。
そうなれば「私」は大きく欠落することになります。そのとき、私たちは、「私」は――――。
声を持ったその日から、私達は忘らるる恐怖に呪われているのだ。
(アメリカ民謡研究会『衆体の祝い。』より)
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