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93年生まれの「私のインターネット史」

私は「インターネット」が大好きでたまらない。インターネットといっても広義では様々あるが、もう、全部含めて愛していると言っても過言ではない。

卒業論文でも「メディア化する若者たち〜デジタルネイティブ第5世代〜」というテーマでmix channelを題材に若者の情報発信について書いた。そう、この卒論、今後まるっとnoteで公開しようと思う。2015年に書いたのものだが、読み返してみると2020年今まさに起こっていることが書かれている。約5年前の私が未熟ながらもきちんとその未来を捉えていたんだという証を残そうと思う。

話を戻す。もう一度言うが私はインターネットが大好きだ。何故ここまでインターネットにはまり込んだのか、その背景を時系列で書き記そうと思う。これはインターネットとともに生きている、26歳の私だけのインターネット史だ。

メール・ハンゲーム時代

私の記憶が正しければ、初めてインターネットに触れたのは家族共用のパソコンが家に設置された小学5年生の時。2004年のことだ。クラスでメールアドレスを持つ子が増え、友達や好きな人とよくメールをしていた。

2004年といえば「恋のマイアヒ」が流行った年である。

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世はFlash全盛期。ホラーFlashの「赤い部屋」や「ウォーリーを探さないで」、おもしろFlashの「ハゲの歌」「残酷なサザエさん」などを毎日チェックしていたし、話のネタになっていた。この時からTVの話題よりもインターネットの話題がクラスで話されるようになった気がする。

そしてハンゲームにも同じくハマった。

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ハンゲームはゲームをしたり自分のアバターを着せ替えたり興味のあるコミュニティに入ったりしながらインターネット場でいろんな人と繋がるポータルゲームサイトのようなものだ。

今でも覚えているが、ユーザーネームは「♪wユー♪」だった。確かハロプロの加護ちゃん辻ちゃんのユニット「W(ダブルユー)」への愛が高じてこの名前にしたのだと思う。完全に黒歴史でしかない。

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※加護ちゃん辻ちゃんは今でも永遠のアイドル

ハンゲームでは、主にアバターにハマった。お年玉は全てアバターに課金した。

アバターは、ガチャをまわして獲得するのだが、場合によっては中々ゲットできない超レアなアバが出てくる。そしてそのレアなアバターを交換したり、売買したりする。

私は当時「クロスピアス(赤)」を持っていた。相場が高く割と高値で売れるものだ。これを初めて売ろうと思った。

しかしこの当時の私は、まだ取引というものを分かっていなかった。

ハンゲーム上のメッセで、取引相手よりアバの先送りを提示された。その後アバガチャを回せるハンゲーム上の仮想のお金(ハンコイン)を送るとの約束だった。そして取引初心者の私は何も疑わず快諾したのである。

言われた通りアバターを送付した。その後連絡を何度か試みるも、見事に音信不通。やられたと思った。冷や汗をかいた。小学生で「詐欺」の怖さを知った。

以降絶対に詐欺られない方法で取引を進めるようになったのは言うまでもない。インターネット上では、まず人を疑うことを学んだ。

YouTubeとの出会い

小学6年生でYouTubeに出会う。クラスにいた腐女子から「この動画サイト面白いよー」と送られてきたのが出会いのきっかけだ。

YouTubeは2005年2月に創立された。恐らくその半年後には利用していたのだと思うと、何だか感慨深い。当時は、長州小力のパラパラ「ナイトオブファイヤー」が流行っており、誰かが転載したそのダンス動画等を見て踊っていた。HINOIチーム、好きだったなぁ…

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この頃はほぼ全ての動画が違法アップロードである。無法地帯で転載される動画を毎日チェックしていた。

前略プロフィール

2006年。中学生になると、携帯電話を持った。この時期から学校外のコミュニティを増やそうという意識に切り替わる。

当時のナウいヤング(死語)な中学生といえば、前略プロフィールは必ず持っていただろう。私もそのうちの一人だった。

前略プロフィールとは、自身のプロフィールを公開するページだ。盛れたプリクラをTOP画像にし、学校名や学年、趣味、最後に挨拶の一言などを書く。

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※引用 kakeru

私は「ゲスブで絡まりーた★カキコしてね」と書いていた。死にたくなる。

ゲスブとは、前略プロフィールを持つ人が所有できる、自分だけの掲示板のようなものだ。有名な子、可愛い子、ヤンキーのゲスブはよく荒らされていた。

様々な黒歴史が詰まっているが、ここでコミュニティを広げたのは確かだ。私にとって他校の友達との出会いの格好の場だった。ギャルに憧れた私は、地元の有名なギャルとお近づきになりたく絡みに行き実際遊んだこともあった。

ジャニヲタの始まりータレコミ掲示板という沼ー

2007年。中学2年生にある事件が起きる。

全くジャニーズに興味がなかった私が、当時ジャニーズJr.として活躍していた山田涼介くんに出会ってしまったのだ。あの時の衝撃は忘れられない。

それからは「タレコミ掲示板」に居座るようになった。タレコミ掲示板とは、主にジャニーズファンが様々なスレッドを立て、ファン同士で書き込みや情報交換をするサイトだ。匿名で、交流をするというよりは淡白な情報交換が主流だ。

当時はパケット代が定額のプランではなくパソコンで閲覧していたが、途中で定額制に変わった。それからは携帯でタレコミを延々見ていた。

初めての書き込みでは、何もわからず思ったままに投稿した。すぐさま「ネチケ」というレス(返信)があった。"ネットエチケットを守れ"の略である。

無駄な改行や絵文字禁止、ギャル文字禁止、などだ。

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※上記は俳優用の掲示板

タレコミではネットでのマナーや、情報収集の術を逐一学んだ。コンサートのチケットが届けば、ジャニヲタがタレコミに大量に書きこむ座席報告をチェック。エクセルで集約し座席予想をしてよく貼りつけていた。

情報収集が得意になりすぎた結果、ジャニーズの個人情報を得ようと思えば簡単に得られた。勿論誰も幸せにならないためやらなかったが。

「分からないことはソース(一次情報)を確認しながらインターネットに聞け。さすればたどり着く」という信念は、タレコミで培った。

リアルの利用ーpeps、chips!、decooー

2008年頃からは前略プロフィールにリアルをリンクすることが一般的になった。

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※引用 ITメディアニュース

リアルとは、リアルタイムの略でその時思ったことを呟く個人サイトだ。今は中央集権型SNSが当たり前だが、当時はそんなものはほぼ無い。したがって個人が各々Twitterのような呟きサイトを所有し、自分の前略プロフィールにリンクしていた。

このリアルは様々な業者が提供しており、初めのうちはchips!がよく使われていた。しかし最終的にはdecooのシェアが一番大きかったのではないだろうか。(このリアル文化は大学1年辺りまで続いた)

そして、リアルはサイトのオリジナリティが出せる点も魅力的だった。ある程度のテンプレは存在するものの、凝りだすと独自で編集が必要だった。

当時はマウスの移動やドラッグ&ドロップでデザインを編集できるような機能は勿論存在せず、リアルのサイトデザインを編集するためにHTMLタグを使っていた。色を変えるときはカラーコード変換ツールを使ってコードを書いていた。

周りの友達で上記のようなことをしている子は少なかったが、タレコミやオタク活動で出会うジャニヲタ達にとっては当たり前のスキルだ。今でもあの当時を生きたジャニヲタが揃えば、web界隈を支えられると思っている。

またHTMLに合わせて、画像作成にも手を染めた。ピクトベアーというソフトを利用して写真の背景処理・透過をし文字を重ね、割とクオリティの高い画像を作成していたように思う。そしてその画像をサイトで配布したり、希望する人がいれば作成代行をしたりしていた。

この時はただ好きなもの(ジャニーズやハロプロ)を使って作ることが至福の時間であったため、自然に多くのスキルが身についた。好きこそ物の上手なれとはよく言ったものだ。

ブログーCROOZブログー

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リアルより多少遅く出現したのがブログだ。世間では真鍋かおりさんがブログの女王としても有名だった。

ジャニヲタ達はコンサートレポートをブログでまとめるのが当たり前だった。私も例に倣ってCROOZブログを書いていた。

「◯◯くんがこの曲のこのフレーズで投げチュー(ファンサ)してくれた!」

とマウント合戦が繰り広げられる。今思えばしょうもないが、こんなことに命をかけていた。

商業高校・情報処理科という選択

中学3年の夏。進路選択のタイミングだ。正直やりたいことなんて何もなかった。

そんな中母親の母校であるという理由から、商業高校の体験入学に訪れる。ここで、プログラミングと出会った。衝撃だった。コードを書くだけで画面上のロボットを動かせたのだ。

もう気持ちは決まっていた。私はこの学校の情報処理科を受け、無事入学。2009年のことだ。

入学後は毎日PCの授業があった。プログラミング検定、ワード検定、エクセルの検定(正式名称は異なるが割愛する)に向けて毎日PCと向き合っていた。最終的には簿記やそろばん検定も含め5冠(1級を5つ)取得できた。

プログラミングは…思っていたより手強かった。が、実際システムが動く瞬間は楽しかった。高校での経験はインターネットという概念とは少し離れるが、それらを作るためのツールやシステムを理解する重要な時期だったように思う。ただし、大学で専攻したいとは思えなかった。

mixi時代

ヘイmixi。やっとたどり着いたぜmixi。mixiは皆さんご存知かと思うので説明は割愛。

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さて高校2年の2010年頃になると、ようやくSNSがコミュニケーションの主流に。同じ高校の同級生とは顔は知らなくともmixiでマイミク(友達)になっていた。憧れの先輩もmixiで検索をした。

そういえば初期は招待制かつ年齢制限があり、登録できなかったはずがいつからか自由に登録ができるようになった。  

当時は、匿名性が低く多方面の人と繋がれるコミュニティサイトは新鮮だった。コミュニティに入ったりブログを書いたり、フル活用していたように思う。

ただし、割とオープンな場所というイメージがあり、個人的な愚痴や想いはリアルに綴っていた。高校時代は、SNSでのトラブルが色々あった気がする。

多感な時期のSNSは、相当リテラシーが高くないと難しい。

スマホの登場

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高校3年の2011年頃、クラスメイトでもスマホを持ちだす子が急増。実は私はスマホを持ったのが大学1年の冬と遅かった。変にガラケーを長く持つのが正義だと思っていたからである。

ガラケーの頃はアプリという概念について、何度説明をされても理解できなかった。にも関わらずLINEやFacebookはブラウザで登録していた。

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しかし、ついにスマホを手に入れた。世界が変わった。何故もっと早く持たなかったのか、後悔した。スティーブ・ジョブズには足を向けて眠れない。

以降徐々にアプリを起点としたサービスを利用するようになり、メール文化は消えた。あれだけ更新していたmixiもリアルもさっぱり動きがなくなった。

打って変わってFacebookやTwitterを多用するようになる。

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日々の日記や思ったことをFacebookやTwitterに投稿していた。しかし大学3年頃、Facebookでは所謂大人たちの参入でプライベートな投稿ハードルが高まる。FacebookがパブリックなSNSに変わった瞬間だった。

それ以降は鍵付きのTwitterが主流となる。大学の先輩や同級生、後輩とほぼ全員とTwitterで繋がっていた。

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だがここで黒船インスタの登場だ。初期はコラージュ加工した綺麗な思い出画像を投稿するプラットフォームのようなイメージで、アルバム感覚で利用していた。まだまだコミュニケーションプラットフォームとしては弱かったように思う。

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しかしストーリー機能によってSNSの立ち位置がまたがらっと変化した。より自然でリアルタイム性の高いストーリーは、着飾る必要がなく、また24時間で消える気軽さが投稿のハードルを下げた。Twitterがコミュニケーションの中心だったはすが、大学4年頃から社会人にかけて完全にインスタに変わり、今に至る。

こうして見ると、やはり数年単位でツールが移り変わる。そしてどの時代も、大人の参入により若者たちがその場から退避し、また新しい文化を作り上げる。今で言えばTiktokがそれに当たるだろう。

web広告業界を受け続けた就職活動

2015年。就職活動。人生における一大イベントだ。

マイナビとリクナビに登録し、マイナビのガイダンスで言われた通り、自己分析と企業研究、テスト対策を同時並行で進める日々。

就職情報サイトで適正テストを受け、マッチする業界のうち興味の高い業界をピックアップする。業界をもとに企業を検索し、みん就(みんなの就活日記)やVorkers、転職会議などの口コミサイトを見て企業の内部や将来性を判断し、Twitterで就活テクニックを学ぶ。

こう思うと、すべての活動がインターネットで行われていた。昔は葉書だったなんて、考えられない。

自己分析としては、自分史を作った。自分と向き合い振り返ると、わたしにはインターネットが常に隣にいた。

また活動を進めていくにつれ、広告業界に魅せられた。であれば、これから市場として伸びるであろうインターネット広告がいいのでは?よし、地元を離れるしかない。遠征就活生活の始まりだ!!

そんな想いで総合広告代理店からweb広告専業代理店、メディアレップ、メディア運用会社など一通り受けた。毎週福井から大阪東京に通った。就職活動は割と楽しかった。よく泣きもしたが、ますますインターネットへの愛が深まった。

最終的には、就職情報サイト会社へ就職。なんと自分が一番お世話になっていたサイトの運営会社に就職したのだ。

最終的に決断した理由は、必ずと言っていいほど特定の年代が利用する巨大なメディアを持ち合わていること。にも関わらず、まだまだ年数は浅く若手が多いという環境に惹かれた。

ここでは営業を4年経験したが、やはり自力で受注した企業の情報がインターネットに放たれる瞬間は嬉しかった。0:00にスマホを片手に掲載を確認した時の高揚感は未だに忘れられない。

わたしの中の仕事の醍醐味は、インターネットの力により隠れていた世の中の魅力が発信され、また確実に受け取りアクションを起こすユーザーが目に見えることだった。

そしてこのインターネットへの愛情が、キャリア観の形成や今の仕事にも繋がっている。



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わたしの中のインターネット史は以上だ。

今は容易に高度な情報や商品をインターネットを通して手に入れられる。昔であれば憧れのブランドを購入するにも東京に行くしかなかった。それが今はZOZOを始めとする通販サイトで購入できる。セミナーだってインターネットで受けられる。YouTuberが立派な仕事になった。

時代の移り変わりとともに失われるものを憂う人がいる。もちろん失われたものに思いを馳せることも必要だ。しかし私はインターネットという武器によって、様々なものを手に入れられた。もちろん私だけではない。少なくとも、今、日本を生きる大半の人がインターネットと共存している。これは紛れもない事実だ。

とは言えインターネットを武器とするかはその人次第である。別に強要もしたくない。好きに利用をすべきと思う。



ただ私は、やはりインターネットが大好きだ。












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