20240108

『八日目の蝉』を読んだ。2024年の1冊目。
ずいぶん本を読まなくなったけれど、数えてみようかなって、ふと。
偶然『市子』にも通じる内容。逃げる話でもあり、居場所の話でもある。話し手の切り替わり方、景色の見え方。

映画は永作博美さんのポスターを何度かみかけていたけれどみたことはなかった。みたいなと思っていたような気がする。Amazonプライムでは400円だった。借りようかな。

以下、内容に触れます。

好きな人間の子どもの、顔を見るだけで良いと思って部屋に忍び込んで、あっという間に連れ去ってしまう冒頭、そこからずっと危うさにハラハラする。経験もないのに育てられるわけない、隠し通せるわけがないって自分に引きつけながら読む。

本当ならその子が得られたはずのものとの落差にめまいがする。それでも逃げるのかと思う。
攫ってきた子どもとバレそうになるたびすべてを捨ててまた逃げる繰り返しがしんどい。そして最後、ほんの少しみせてしまった隙の、そのありようがせつなく感じる。

わたしならこんなに逃げられないな、逃げなければと思ってもその都度何もかも捨てられない。きっと決断が遅れるだろうと思いながら読んだ。

また、攫われた子どもの、攫われなければ当然得られただろうと勝手に想像していたものごとの得られなさ、もとの家庭の理想的でなさ、自分がどんなにありきたりなものの考え方しかできないかにおののく。

こんなのただの書類の上のことじゃんか、戸籍とかほんとうに、わけわかんなくならないようにあるのかもしれないけれど、一生を苦しめるようなものでは全然ないと思うよわたしはって、いつものとこに帰ってきちゃった。市子もそうだけど。
でもたったそれだけのものがないと、人がゆいいつその人として存在していることが証明できないの、本当に?

そして思うこといつものように、人やものごとをさ、願いすぎないほうがいい、たぶんだけど。何かを何かで約束できるって思わないほうがいい。それについて悩んだり行動したりしなかったり戦ったりした人の物語を前にただ自分に言い聞かせてる。

いつか小豆島に行ってみたいな。

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