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出雲の旧家の伝承によると

 インド半島全体にインダス文明を築いた民、ドラビタ人がいた。

 約4·5000年前の日本でドラビタ人のクナ族が民族移動し日本で初めての王朝、出雲王朝を創ったというのだ。

ドラビダ人は母系家族制の農耕民族で戦いを好まない。
母系家族制というのは、家で女·子供が生活。
時折、夫がやってくる、夜這いみたいなものだそう。

 西北から、好戦的で父系家族制の戦いに長けているアーリア人が侵入。多くのドラビダ人を奴隷化、そして母系家族制度を狙い混血化、南方へ逃げたがクナ(現在のグナ?)地方を支配していたクナト王は、希望者を集め移動し北に向かった。

 バイカル湖周辺に住んでいた、商人のバリヤード人に東に温暖で(?)人も穏やかな島が有ると聞きそこを目指していた。
過酷な山岳地帯の方が攻めて来る人も少なく危険を回避できる聞き、クナト王と移住集団は家畜の背中などに食料を積み、季節を選びゴビ砂漠を抜けバイカル湖にやっと着き、暫く滞在し現地人と交流したそうです。

最近、とある政治アナリストの方がロシア人の特徴を単純で実直で正直、デモクラシー、リベラリズムには向ず、【どこか日本人に似てる】と。
 ロシア文学が日本で共感されているのも、そのドラ人とブリヤード人、そして和国の人との共通点なのかもしれない。

 筏、櫂を作り、アムール川を下り樺太に着き渡り島(北海道)を進んだ。

 ヒグマに襲われなかったのだろうか?なんて考えてしまう。

  伝承によると、秋田市大湯町に2つの環状列石(ストーンサークル)をつくったのは、南下するクナ王達の集団が作ったそうだ。

 待てよ⁈
北海道にも、環状列石が割と多い。
しかも地図で見ると、日本海側に。

 伝承によると、環状列石はお墓の役割を持っていると云う。そう考えると最初は環状列石を作られたのは北海道かも知れない。

 小樽には、史跡手宮古代文字やフゴッペ洞窟と云う遺跡の他に大きいところで忍路オショロ環状列石など数箇所の環状列石がある。
何か繋がりがあったら良いな。


何て言ってもインダス文明を築いたドラビタ人ですから、自分たちの移動の形跡を残したのでは?もしくは、そこにアイヌと混血し残った人々がその形跡を残したのではと妄想が膨らむ。

津軽に上陸。
クナ族が本州に上陸したとき、日本は縄文時代だったそうだ。
 伝承では、東北でクナ族の勢力が次第にアイヌ人よりも優勢になった為、アイヌは北海道に住むことになり、本州に残ったアイヌ人とクナ族が混血していったと。

 そうかな?
それは、ちょっと物申したい。
戦うことの嫌いなクナ族だから、どちらが優勢とかないのではないだろうか?
と、自分の意見を挟んでみた。
 
そして 山内丸山遺跡の高床式の建物は古代の出雲大社(杵築)の神殿にも通じるという。

 その後、秋田の大湯町の環状列石。その後の記述は伝承には無いが山形県長井市草岡にあるのか環状列石の体をなしているが、日本海側ではない。どうなのだろう?
定住の地を求めるのは並大抵の苦労があった筈です。

伝承の中でイズモ族(クナ族)の渡来について、言語の観点から、国語学者の大野晋氏は、日本語とタミル語(ドラビタ語の一種)の間には単語や文法の共通点が多いとの事です。

類稀にみる言語の日本語の共通点にインドのドラビタ語に共通点が多いとは驚いたものです。
現在に残る習慣も共通点が多いそうだ。




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