牢獄 第一章
はじめに
「牢獄」は、僕が大学生の頃、自分のウェブサイトに掲載していた自伝です。第一章は、僕が自分がゲイであることを受け入れるまでのお話と、人生で初めて、そして22年間、付き合うことになる相方(本文中では「彼」と表記)との出会いのお話です。
文章中に「……」が大量に使われていたり、一部の漢字表記が恥ずかしくて、直したいのをグッとこらえながら、原文のままで記載しました。
21,000字を超える長文ですし、昔の話ですので、とても誰かの役に立てるとは思っていませんが、もし自分がゲイであることに思い悩んでいる方、世の中にはこんな人間もいるんだと知ってホッとされる方がいてくださったら、幸いです。
冒頭で家族へのカミングアウトについて言及していますが、その詳細は「牢獄」第二章で述べています。
前置きはここまでとして、1996〜1997年の僕(21〜22歳)の、僕なりに懸命に生きた姿を、ここに晒します。
カムアウト
こうして僕は僕になった
カムアウトという言葉を知っているだろうか?一部の人間、……そう、同性を愛することの出来る人間には広く知られた言葉だ。
カムアウト……即ち、自らが同性愛者であることを一般に告知するという行為には、大きなリスクが付いて回る。多くの同性愛者は自分がそういった人間であることを隠そうとしているだろうし、僕もきっとそう出来るだろうと思ってはいた。それが一番いいやり方なのだろうと。
でも……僕にはそれが出来なかった。
1997年3月4日。僕はある決心をする。ただ怠惰な日々を過ごしてきたツケ……大学留年の確定が明らかになった、その日に。
僕は元々度胸のある人間ではない。出来る限り、何らかのリスクは避けて通るパターンの生き方をしている。けれど僕はその時分かっていた。今、留年することを親に話さない方が負うリスクが大きいことを。そして、僕は卑怯な決心をした。同じ1つのリスクで全ての罪悪感を精算する決心を。
1997年3月5日。僕は両親に自分自身が大学を留年しなければならないこと、大学をやめたいこと、そして自分が同性愛者であること、付き合っている男性がいること、更にゆくゆくはその人と暮らしたいことを全て告げた。言うリスクは1つだけで済んだ。我ながら、卑怯な手段だったと思う。多分、両親が混乱してしまうのを計算した上での行動だっただろう。無意識のうちに。
こうして……僕が僕であるための無謀な試みは引き返せない形で……敢えて自分自身を追い詰めて行く形で始まった。そして、それは僕のみならず両親・家族にとってもそうだっただろう。
誰にも選択権はなかった。……僕にも。
罪
自分でない自分を統制することは出来ない
それは……まだ僕が自分自身がゲイであることを家族には話していなかった時。敢えて言う、大学生だった。そう、僕は既に大人だった。それなのに、僕は罪を犯した。自分の友人に対して。
彼は、これまで僕の周りにはいないタイプの人間だった。リーダーシップを取ることの出来る、積極的な人間。そして、自分の理想像をしっかりと持っていて、それに向かって確実に歩を進めて行く人間。その代償に、彼は他人に対する配慮を持っていなかった。そんな人間だったから、僕は平気で自分がゲイであることを彼に言うことが出来た。例え僕がゲイであったところで、僕自身に対する価値観の変わるような人間ではなかったからだ。
彼とは高校も同じだったのだが、高校時代はクラスが違ったこともあってか、お互いに知ることもなかったのだが、たまたま大学が同じで、下宿先も近いということで、部屋でダラダラ時間を過ごす日々を共にしていた。
冬だった。僕の部屋にはベッドが一つしかなく、彼とは平気でこれまで一緒に寝ていた。夜中3時。僕は急に目が覚めて起き上がった。ふと横を見ると、彼が熟睡していた。
何かが僕の中で起こった。閃光の様な物が見えたのを覚えている。自分のすぐ横で、自分の愛し得る人物が眠っているという安らぎ。多分、自分は一生誰にも「好き」という言葉は口にしてはいけないのだと思っていた。そしてこれからもきっとそうだと。これからずっと一人で生きていくのだろうと確信していた。
けれど今、彼は僕の目の前で安らかに眠っている。自分自身を信頼しきって。たとえそれが友人としての信頼であっても。
その時、彼が自分に向かって寝返りを打った。彼のジーンズに染み付いた男性の臭いを感じた。
そして僕は罪人になった。彼のジーンズのファスナーを下ろし、手を入れ、トランクスの更に奥へ、彼自身に触れた。ただ触れるだけで満足する筈だった僕の性欲は、更に刺激を求めた。手を、指を、僕自身の欲求を、彼自身に向けた。やがて勃起したそれに触れ、満足した僕は手を抜こうとした。
罪には必ず審判が下される。
その場で彼は目覚め、僕を殴って出て行った。「おまえは友人としての信頼を裏切ったのだ」という言葉を残して。
すぐに僕は謝罪の電話を彼の家に入れたが、すぐに切られてしまった。そして、僕は一人になった。もう謝ろうとは思わなかった。もう僕の居場所は普通の社会にはないのだと、その時感じた。もう、僕はヘテロの振りをしている訳にはいかないのだと。自分がゲイであることを自覚せねばならないのだということを。
初めての接触
感情を持たない獣
僕は、もう普通の社会に居場所はないと思った。もう居てはいけなかった。それは、僕自身が犯した罪から僕が学ばなければならないことであり、そして同時に、自分がゲイであることの自覚を持つということだった。
ただ、僕は同性愛者として生きる窓口を知らなかった。何をどうすればいいのか、特にそういった知り合いがいる訳でもなく、ただのうのうと毎日を過ごしていた。
そんな僕は、ある方法を思い付く。専門雑誌に設けてある投稿コーナーである。本来、恋愛対象となる相手を見付ける為のコーナーなのだが、そこでゲイ社会に詳しい人間を探し、そこから知識を得ようと思ったのである。もちろん、僕には恋愛をしようという気はさらさらない。ただ実際に同じ感情を持った人間がいる、その姿を見てみたかっただけだったのかもしれない。
僕は投稿文を雑誌編集社に送付した。果たして回送されてきた手紙は来た。もう後には引けない。会うしかない。自分と同種の人間と。そして僕はゲイ社会に入って行くのだ。これが始まりなのだ。
金曜日の夕方。僕はその男と、近くの喫茶店で会った。普通のサラリーマンだった。そしてそのまま僕とその男は僕の部屋へ向かった。ただただ流されるままに。僕にはその後どうなるのか分かっていた。自分がどうしたいのかも。
部屋に入って、鍵をかけた途端、その男が背後から僕を抱き締めてきた。僕は、そこには温もりがあるのだと思っていた。……けれど、背後にはただ冷たいだけのスーツ姿の男がいるだけだった。今日初めて会ったばかりの、見も知りもしない、赤の他人。それが今僕を抱き締めている。
やがて、男は僕にキスを求めてきた。僕はまだキスという行為自体したことがなかった。……初めての、キス。
……いいのか?これで?
……こんなものだろう、多分。
そうしたものなんだよ。
一瞬にしてあまりに多くの思考が僕の中を流れ……そして僕はめまいを感じた。違う、こうじゃない、僕が僕であるということはこういうことじゃない。
後は覚えていない。男はいつの間にかいなくなっていて、そして僕は部屋で一人泣いていた。何が悲しいのか、なぜ涙が出るのか分からなかった。そうやって泣いている自分を、ずっと高い所から見ているもう一人の自分がいて、変な気持ちだった。
分かったことは一つだけ。僕は、ゲイ社会に入ることは出来なかった、そういうことだった。
くらげ
人の意識の届かない海の底で
普通の人間を装っていることは、かつて犯した過ちから僕には許されなかった。でも、僕は同性愛者の世界に入ることも出来なかった。もう、どっちの世界にも入れない。僕には、いる場所がない。
かといって僕は死ぬことも出来なかった。そんな勇気もなかった。かつて中学生時代に僕を友達が止めてくれた、あの件があったから。かつて僕の目の前で死んだ、僕の初めて好きになった人の言葉があったから。
生きるでも死ぬでもなく、何かの目的がある訳でもなく、僕はただ漂うように存在していた。その時の僕にはただそれだけが精一杯だった。
人ごみの中を漂う、くらげ。僕はそんな「もの」だった。
僕は完全に自分自身に対する価値を感じていなかったし、多分生きようと思っていなかった。仮に生きて何か成し遂げたとしても、結局死んでしまうのだから、何も意味がないとずっと思っていた。
ただ流されて、気が付けば砂浜に打ち上げられ、乾燥して干からびるのを待つだけの人生。何の選択権もない。押し寄せる波に流されるだけの人生。
……くだらない。
そう思わずにはいられなかった。これからの自分の人生がどうなるのかが、見えてしまっていた。
どうせ漂うなら、せいぜい楽しんでやりたいことをやってやろう。僕は半ば自暴自棄になってバイトに打ち込んだ。
清掃業者の社長は、いたく僕を気に入ってくれた。他の人が遅刻すると大声を張り上げて怒鳴り回すくせに、僕がどれだけ寝過ごしても怒らずに、逆に心配してくれた。他の人には内緒で銭湯に連れて行ってもらったり、家に呼んでもらって飯をご馳走になったり、しまいには僕を仕事の跡継ぎとして養子にしたいとまで言うようになった。
そうやってバイトの中で自分自身を評価してもらえることで、僕は自分の存在理由を支えていた。引き替えに得られる金はもちろん、仕事仲間(もちろん定年過ぎたじいさんばかりだが)との話や、次第に大きな仕事を任されていく自分自身。そういったものに僕は満足出来るようになった。
気持ち的に少し余裕の出来始めた僕は、何度か回送等を利用して見知らぬ男と会い、その場限りの欲求を満たしたりしていた。
何もそんなに深刻に考え込む必要はないじゃないか。ただ、性欲をこっそり満たすだけ満たして、普段は普通にしていればそれでいいんだ。そう思うことにしていた。
そうすれば僕はきっと生きていける。
そうすれば僕は辛くないんだ。
そうするしか方法がないじゃないか、今の社会では。
そういった自己満足と引き替えに、僕は大学での学生としての存在を失った。大学の友人とも連絡を取らなくなった。単位も取らないままだった。でも、僕にはそれで良かった。大学にいるより、バイトをしている時の方が意味のあることを学ぶことが出来た。
1996年正月。僕は年末のアルバイトで得た金と貯金をはたいてMacを購入する。そして1996年6月。僕は遂にインターネットに手を染めた。
インターネットにも慣れた1996年7月。僕は人生を変える出会いをする。チャット、である。それも通常のチャットではない。同性愛者専用のチャットだ。大した会話が為されていた訳ではなかった。ただダラダラとチャットセックスが繰り広げられていただけの、性欲の吐き溜めだ。それでもその中から僕は幾人かの友人を得た。
思えばこれがなければ僕は僕でいられなかった。ひょっとしたら今ごろ思い詰めて、昔のように日々病院に通い続けることになってしまっていたかもしれない。
今、僕は自分のホームページに常に同性愛者専用チャットを置き続けている。僕の個人的な意見でチャットセックス等は禁止された「同性愛者の友人とコミュニケーションを取る一つの手段としてのチャット」だ。
僕がチャットを置こうと思ったのは他でもない。自分を救ってくれたチャットというものに対する感謝。僕がそういう場を提供することが出来るなら。……ただそれだけなのだ。
誰も僕と同じ過ちを繰り返さなくてもいいように。
僕と同じ過ちを繰り返した人が、その場で救いを得ることが出来るように。
その気持ちは、今も変わっていない。
僕は死んだ
長い長い旅の始まり
同性愛チャットにも慣れた、1996年10月18日。僕は名古屋にいた。同性愛チャットで知り合った面々と会うためだ。いわゆる、OFF会というやつである。
少なからず僕は緊張していた。なにしろ単に文字を介してのみでの知り合いである。不安にならざるを得ない。
もちろん、僕はあくまでも知り合いに会うというつもりであって、そこで付き合える彼氏を見付けようだとか、誰かとセックスフレンドになれればいいな、とか、そういうことは全く頭になかった。
果たして名古屋駅。僕を含めて総勢6人のメンバーは、メンバーの中の一人の家に移動した。この家で3日間、6人は共に生活することになる。
最初に会った時には別に興味はなかったのだが、移動中の車の中で、妙に話のフィーリングの合う人間がいた。それが「彼」だった。別に顔がいいという訳ではない。でも何か……話していて何とも言えない安心感を感じる、そういう人だった。
メンバーの一人の家に到着してから、僕たちは他愛ない話をずっとしていた。それぞれの地方の相違であるとか、食べ物とか音楽とか、テレビのドラマの話とか。普通の人間が普通に初対面に会う時にするような、そんな話だ。
お互いにそういうチャットに出入りしているからといって汚い話をしたりはしなかった。何だか普通の友達の様な、そんな感じだった。
夜。僕たちは狭い6畳間で雑魚寝した。
たまたま……、いや、正直に白状しよう、僕の意図的な行動により、僕の隣には「彼」がいた。この時、既に僕と「彼」はまるで前々から知っていた友人であるかのように冗談を飛ばし合っていた。その時、彼が冗談で僕にこう言った。
「腕枕してやろうか?」
僕はもちろんそれが冗談だというのは知っていた。でも、僕は敢えてそれを真に受ける行動に出た。そうすることでこの人にもっと近付けるかもしれない。この人を知ることが出来るかもしれない。僕にしてみれば、「彼」の冗談に対する一つの反撃だった。
素直に頭を預けて来た僕を見て、「彼」は少なからず驚いたようだった。でも驚いたのは最初だけで、すぐにまた元の会話に戻った。
やがて、長旅で疲れていた面々は早々と眠りに落ちて行った。結局最後まで起きていたのは僕と「彼」だけだった。他の人を起こしてはいけないから、と僕たちは毛布をかぶって、その中で話をした。薄暗い毛布の中に「彼」の目がずっと見えていた。
僕は話をしながら、ずっといろんなことを考えていた。僕はどうしてこんなにほっとした気持ちでいるんだろう?僕は何をこの人から得ているんだろう?
ぼんやりしている僕を見て、また「彼」が下らない冗談を言った。その冗談に返す言葉を口にしようと、僕は口を開いた。その時、一瞬「彼」が笑ったような気がした。
時間が止まった。
目の前に「彼」の顔がずっとあった。「彼」の唇さえも。でも、それまではただ見ているだけだった。その瞬間、「彼」の唇の感触が、僕の五感を支配した。「彼」と僕の発する息使いが、密閉された毛布の中で直接耳に響いてくる。
知らず知らずのうちに、僕は目を閉じていた。
そして、その時僕には世の中の全てのことが理解できた。あれだけ難しく考えていたことが一瞬にして解けていく、そんな感じだった。なんだ、こんな簡単なことだったんだ。僕はいても良かったんだ。
その夜、僕たちは周りで眠る面々を他所に結ばれた。思えば、この出会いこそが全ての始まりだった。僕と「彼」と、家族、友人、全てを変えていく出来事の。僕が本当の僕自身を探す長い長い旅の始まりだった。
そして同時にひとつの終わりだった。僕が、僕でない僕を演じ続ける日々の。仮面だけの僕は、この日、死んだ。
ありがとう
そして心から愛してる
「彼」と結ばれた僕は、3日間の名古屋滞在を経て大阪に戻った。大阪に戻ってからの僕は、何だか変だった。ふわふわと浮いたような…これまでの沈んでいくような感じとはまた違った、精神的に不安定な状態。
それでも僕は何がしかの余兆を感じてはいた。僕がこれまでの僕とは違う、何か。
帰って次の日の夜。「彼」からのメールが届いた。
メールの中には、彼の現在の心境が切々と書かれていた。これまで何通もメールをもらったことがあるが、これ程僕を考えさせたメールはない。
「彼」は結婚するつもりだった。なにより「彼」は子供が欲しかった。社会的なステータス、家庭を持つということ。更に「彼」の年齢は既に30を過ぎていた。チャットにはわざわざ気を使って、年齢を誤魔化して入っていた。自分がもはや人生の最終決定を迫られている時期にあること、そして今、同性を選択するということがどれだけの重さの決定であるのかということ。周囲からの目、結婚しないで居続けることの先に待つもの。そしてお互いに遠距離であること。
「彼」と電話で少し話をした。「彼」は言った。
……お互いに付き合うの、期限を決めないか?例えばお前が大学を卒業するまで、とか。
僕にとっては衝撃的な発言だった。違う。この人は、僕とは違う。これが学生と社会人の差、なのか?これが年齢の差、なのか?
お互いが「好き」であるのに、どうしてこんなに悩まなくてはならない?どうしてこんなに辛い気持ちにならなければならない?
電話を切って、そして僕は沢山考えた。いろいろな事を。もし自分が社会人になって、30歳を過ぎて、それでもまだ独身で、出世も望めず、周囲からの目に日々耐えながら過ごさなくてはならないとしたら?両親には何て言えばいい?
僕は彼に返事のメールを書いた。もし、お互いのどちらかが結婚することになったとしたら、その時は相手のことを素直に祝福してあげられる関係でいよう。笑っておめでとうと言える人間に、僕はこれからなろう。
彼は僕のことを初めて好きだと言ってくれた人間だった。それまで僕は他者から軽蔑されながら生きてきた。そんな僕に初めて光を当ててくれた人間。この人と不条理な離れ方はしたくない。
僕は、彼の苦悩のメールの結びの言葉を信じた。苦悩の果てに、彼が辿り着いた一つの言葉を。そのメールはこう結ばれている。
「ありがとう そして心から愛してる」
大晦日
僕はそこにいた
クリスマス。僕は生まれて初めて、一人身ではない、愛すべき人物と過ごすクリスマスを迎えた。僕ははるばる彼の家に赴き、冬休みを利用した10日間の滞在を満喫した。
クリスマスツリー、プレゼント、夕食……。普段のクリスマスなら大して意味の無かったものにどれだけの意味があるのか、その日、僕は知った。時間を共有出来る喜び、安心感。これまでドラマの中でしか見たことのなかった光景(僕はこれを下らないことだと信じていた)を、僕は現実に体験したのだ。
12月30日。楽しかった日々が過ぎ、彼の元から僕は大阪へ戻った。正月は家族と過ごすために実家へ帰らなくてはならない。本当はずっと彼と一緒にいたかったのだが、それは許されないことのように思えた。僕は大阪の下宿部屋に戻ると、そのまま眠りに落ちた。
12月31日、夕方5時。僕は実家へ帰るために梅田に出ようとしていた。その時、同じ同性愛者の親友から電話がかかってきた。なんと東京に住む親友の片思いの相手が、突如大阪へ来ると言い出したと言うのである。
親友にとっては、正月を片思いの相手と共有出来る絶好の機会だ。嬉しくて仕方無かったに違いない。かく言う僕も、その相手とは知り合いであった上、そう頻繁に会える距離では無かった。だから僕は、その夜一緒に飲むことを二つ返事で引き受けた。
ぎりぎりで実家へ帰ればいいだろう、という甘えが、どこか僕の中にあった。
果たしてその相手が来阪し、一同は飲む場所を求めて彷徨った。大晦日の夜である。どこで飲むか、という話になって、その相手がある提案をした。ゲイバーで飲まないか、と言うのである。
ゲイの集う場所、ゲイバー。僕はまだ一度もその場に行ったことがなかった。前々から興味だけはあったのだが、いざ自分一人で行くとなると行きにくいものだ。
でも今回は違う。その相手はゲイバーを知っていたし、親友も一緒だ。今を逃したら、僕がゲイバーに行くのは相当先の話になってしまう。結局一同は堂山のとあるゲイバーに向かうことになった。
なんという驚きだっただろう。何人ものゲイが集って飲んでいるという光景。場を満たすオネエ言葉。そしてお互いに相手を求め合う視線の交錯。こんな直接的な知り合い方の場が、こんなに堂々と店として営業されている。
気付くと、もう実家へ帰るための電車は無くなっていた。ただただ僕は新しい刺激に翻弄されていた。ある種の救い……自分の居られる場所を見付けた実感を覚えていた。
20数年間、年明けを必ず家族と迎えていた僕は、初めてその決まりを破った。僕のこの1年は、ゲイバーから始まったのだ。
これからの1年を暗示しているかのような出来事だった。
そして、僕自身は大したことをしたつもりではなかったこの事が、僕と彼との関係に一つの影を落とし始めるのだった。
胸焼け
苦しみの方が孤独より心地良かった
元旦の朝に実家に帰った僕は、その翌朝、もう早速大阪へ帰ってしまっていた。ゲイバーを知った身で、親の前にいるのが何だか気が引けてしまうからだった。
年越しを片思いの相手と過ごした親友は、まだ二人で幸せな時間を過ごしていた。1月2日の晩、早くも飲みの誘いが来た。僕は迷うことなくその誘いに乗った。
2度目のゲイバー。隣では親友が相手と楽しそうに話している。僕はぼんやりと店の中の雰囲気に酔っていた。
気付けば終電ぎりぎりの時間だった。大慌てで一同は店を出て、駅へと向かう。
僕と、親友及びその相手とは帰る電車が違った。親友の家は少し不便な所にあって、既に電車は無く、二人はタクシーで帰るつもりをしていたが、僕は何とか最終電車に間に合いそうな時間だったので、二人とは駅で別れた。
大急ぎで階段を上り、切符を買った。そこで最終電車は出て行ってしまった。24時07分。もう一切電車は来ない。
僕は仕方無しに新御堂筋へと歩いた。タクシーを拾うしかない。エストの横を通って、人気の無い細い道を歩いていく。
そこで僕はふと足を止め、夜空を眺めた。今頃親友は相手と幸せを噛み締めている頃だろう。僕は一人こんな夜中に何をやっているんだろう。
冬の夜空の星座が目に滲みた。どうして僕がこんな気持ちの時に、「彼」は側に居てくれないのだろう。今、「彼」はどうしているんだろう。
胸が苦しかった。涙が止まらなくなった。声を出さないようにするので必死だった。すれ違いに歩いて行くカップルが、泣いている僕を見て笑って行った。
僕は走った。出来るだけ他の人に見られないように。全速力で新御堂筋まで来ると、タクシーを拾った。「池田駅へ」。そう言うのが精一杯だった。
僕は側に彼が居ることの出来ない状況が悲しかった。もちろん、それが仕方ないことだというのは分かっているつもりだった。だが、いざ10日間生活を共にして、急にその存在が身近で無くなった時、そして親友の幸せそうな様子を見た時、自分の中の気持ち……誰かを好きでいるという気持ちが、収集が付かなくなって、混乱してしまっていた。
家に着くや否や、僕は親に正月にもらったウイスキーを原液で飲み込んだ。咽がむせた。胸焼けがひどかった。それでも僕は泣きながらウイスキーを飲み込んだ。
とうとう僕は吐き気が止まらなくなった。トイレでただひたすら吐いた。それは、僕が自分自身に与えた罰だった。
苦しみの方が、孤独より心地良かった。
選択権
僕にはもう何もない
1月4日。彼からの電話があった。電話での声がいつになく不機嫌だった。どうしたんだろう?僕は不思議に思った。
「……正月はちゃんと実家に帰ったんか?」彼が聞いた。
「帰ったよ。大晦日の晩は飲んでたけど、結局朝帰った」
「俺を裏切ったんやな」
唐突なその言葉に、僕は驚かざるを得なかった。裏切り?僕がいつ裏切ったというんだろう?
「お前、大晦日に実家帰るって言って大阪に戻ったやろ。それがなんで友達と飲んどるねん」
「いや、東京から急に友達の片思いの相手が来て……」
「そいつのせいにする訳やな、お前は」
そういう言われ方をするとは思っていなかった。例えば、直接彼に対して何かすっぽかすようなことをしたのなら分かる。でもこれは、僕と家族の問題ではないのか?僕はそう思っていた。
「いや、でも、普通友達来たら飲むやろ?」
「飲むけど、実家には帰る。帰れないなら飲まない」
僕は徐々に自分が誰かに愛されているということの重みを認識し始めた。
「……もしそいつらと飲むんやったら、正月まで俺と一緒にいてくれたって同じことやないか。お前は俺より友達を取ったんやな」
「どっちを取るとか、そういう問題やないやろ?」
「そんなにそいつらのこと好きなんやったらそいつらと付き合えばええやろ」
僕にはその言葉が凄く子供じみたものに思えた。でも、確かに選択権は僕にあった。そして僕は彼の僕への気持ちを考えたことはなかった。一方的な、独善的な「好き」を、僕は彼に押し付けていたのかもしれない。僕の気持ちを受け入れてもらえるだけ、僕は彼の気持ちを受け入れているか?
答えはNOだった。
人と恋愛関係に陥ったことがない僕にとって、これは新しい発見だった。あまりに恋愛経験が無さ過ぎた。これが人と付き合うということだったのだ。謝らなければならない。お互いにお互いを対等に配慮してこそ、初めて恋愛なのだ。
「なんか俺って物凄くいいように扱われてないか?俺はお前のパパなんかとは違うんやで」
「そんなつもりは……」
「それやったらもっと行動に現れてくる筈やろ?俺への配慮ってもんが……」
「ごめん……。」
僕が謝って、少しの間があった。
「やっぱ俺とお前違い過ぎるわ。学生と社会人やし。10歳も年離れてるし。価値観全然違うやろ。お前は大学に友達おって、やることも一杯あってええかもしれんけど、俺はそうはいかへんのやで」
彼から、最後の言葉が出た。
「お前そうやってまだまだ遊びたいんやろ?それやったら、もう別れた方がええって。その方がお前も遊べるし、俺もこんな辛い気持ちにならんで済むやん。……別れよう」
1997年1月4日、土曜日。僕の日記だ。
『ただでさえブルー入っていた僕に、今日とどめがさされた。もう僕にはもう何もない。僕はただ、その人が微笑んでくれる……それだけで良かったのに』
分からない
迷走する気持ち
彼の決定的な言葉があってから、それでも取り敢えず、僕と彼との関係は続いていた。僕が散々謝った挙げ句、彼が折れて静寂が訪れたのだ。
1月の中頃。僕と彼は再び大阪で会った。
なんだかぎこちない時間。それを何とか払拭すべく、僕らは道頓堀へ出た。ゆっくりと大阪を歩いて、ビリヤードを教えてもらって。全てが元通りになる。そんな気がしていた。
突如、僕の携帯が鳴った。東京に行っている筈の親友からだった。確か東京にいる例の片思いの相手と会っている時間だ。わざわざ僕に電話してくるなんて?
「いなくなってん」親友は言った。
「いなくなった?誰が?」意味が分からないので、取り敢えず僕は聞くことにした。
「さっきまで一緒にいたんやけど、急にいなくなってん」
親友の話によると、先程まで一緒にいた片思いの相手が、急に姿を消したという。散々探しているのだが、どうにも見付からない。それで不安になって僕に電話してきたのだ。
「落ち着いて。すぐに見付かるって」
僕が答えた時、隣にいた彼は急に僕を置いて歩き始めた。態度がぶ然としている。機嫌を損ねてしまったんだろうか。僕は慌てて後を追った。取り敢えず電話を急いで切らないことには……。
「取り敢えず、また後で電話するから。それじゃ」
物凄くいい加減な言葉を発しながら、僕は電話を切った。彼の横顔を見る。目を合わせようとしない。僕が何を言っても返事が返って来ない。やがて彼がゆっくりと口を開いた。
「友達と電話したいんやったら、すればええやろ」
「いや、今ちょっと親友の様子がおかしくて……」
「何も俺と一緒に外に出てる時に電話せんでもええやろ」
僕はずっと思っていた。これって僕が悪いんだろうか?かといって彼が悪い訳では無い。僕には彼の気持ちも分かる。ましてや親友が悪い訳ではない。悪いのは、何だ?どうしてこんなことになってしまった?
夕飯を一緒に食べながら、僕は携帯電話の電源を切った。
「なんで携帯の電源切るん?」彼が尋ねた。
僕は、二人でいる時間をもう邪魔されたくないから、と答えた。それでなんだか彼も納得したようだった。
夜。僕と彼は初めて最終的に結ばれた。それまで僕にあまりセックスの経験も無かったせいもあって、あくまでも性交には至っていなかったのだ。僕も彼も、ある種の達成感を感じていた。
二人でシャワーを浴びて、再び僕らはベッドへ戻った。深夜。二人は、その場の時間の流れを共有する喜びを感じていた。
突如、電話のベルが鳴った。携帯の電源は切ってある。深夜、僕の部屋に直接の電話だ。彼の表情が途端に険しくなった。まずい、早く切り上げてしまわないと。もう昼間のぶり返しはごめんだ。
「……もしもし?」僕はやや焦り気味の声で言った。
電話の向こうからは声が返ってこなかった。僕はもう一度尋ねた。
「……もしもし?」
啜り泣く声が聞こえた。誰だ?この声は?
そこで電話が切れた。慌てて思い当たる人物を思い浮かべる。思い当たる人物は……例の親友だった。急いで僕は親友の携帯に電話をかけ直す。
「もしもし?どうしたんや?」
「あ……ごめん…… なんか……こんな夜中に……」
「ええけど、取り敢えず泣き声だけで電話切るのはやめてくれ。こっちが迷惑するやろ」
「ごめん……。今、さっき振られてん……」
その一言で、おおよその見当は付いた。親友は、片思いの相手に振られたのだ。少し詳しい話を聞いてみる。
話によると、結局昼間から片思いの相手は見付からないままで、夜一人で飲んでいるとその相手が平然と街を歩いていたらしい。親友はその相手をつかまえ、そして自ら別離を伝えた。
「取り敢えず、全部終わったから……」
「……そうか。じゃあ大阪帰って来たら連絡してくれ」
僕は電話を切った。
振り向くと、ベッドの上の彼は壁の方を見たまま、僕を見ようとはしなかった。僕も再びベッドに入り、それまでの経緯を話した。彼は何も言わなかった。重い沈黙のまま、その夜は過ぎていった。
翌朝。彼は神奈川へ帰って行った。僕は見送って、それでも自然に振る舞った。彼も、昨日のことはあまり気にかけていない風だった。
その夜。彼と電話で話をした。彼の声が暗かった。彼が言った。
「やっぱり、俺ら住む世界違うんやなぁ……」
その一言で、僕は帰る時の彼の平然さが全て演技だったことを知った。そして、彼は深く傷付いていることも。僕はまた謝らなければならない。彼は許してくれるだろうか?取り敢えず、彼に許すつもりがあるのかどうか聞いてみなくてはならない。僕は彼に尋ねた。
「あのさ、これから俺がいろんな悪いところ直していったら俺を許してくれる?俺のこと『好きやな』って思ってくれる?」
僕は彼の返事を待った。彼の返事はこうだった。
「……分からない……」
「『分からない』って、何が?」
「お前のこと好きなのか、どうか。これからお前が仮にいい奴になったとして、お前を愛してやることが出来るのかどうか。みんな分からない」
「じゃあ今から俺がどれだけ努力しても、もうあかんってこと?」
「……それすらも……分からない」
彼はいろいろ考えて言葉を選んでいる風だった。やがて、今度は彼の方から僕に尋ねた。
「お前さ……。『恋人』と『友達』とどっちが大事?」
「どっちか、って話では比べられへんやん。そんなん」
「お前にとってはそれぞれどういう存在な訳?」
「ん……。『恋人』ってのは心の拠り所だし、『友達』ってのはその上で楽しめる相手、かなぁ?」
「じゃあ『恋人』といる時は楽しくない訳?」
「そういうことじゃなくて……『恋人』といる時ってのは、楽しいというか、幸せ、やで」
「じゃあ『恋人』と話している時と『友達』と話している時とではどっちが楽しい?」
「それは『友達』やね。『恋人』との話は幸せ、やから。『恋人』には話せないことだって『友達』となら話せるし」
少し間があった。
「あのな」彼が言った。「俺お前の友達あんまり好きやないねん。お前が俺といるよりなんだか仲良さそうにしてるし。俺と友達のどっちか選べって言われたら、どっちを選ぶ?」
僕は答えられなかった。
「もし俺と付き合いたいって言うんやったら、その友達と縁切ってくれ。お前は友達おって、学校ですること一杯あって楽しいかもしれんけど、俺は仕事行って、帰って、あるのはお前だけなんやで」
「そんな……」僕は言葉を失った。
「もしそれが出来ひんのやったら、もう別れよう。俺辛い思いするの嫌やし。別にわざわざこの歳なって男と付き合わなくても、普通に女と結婚して家庭持てばええんやから」
どうしていいか、分からなかった。分からないなりに一生懸命どうすればいいかを考えてみたが、それでも考えは空回りするばかりだった。
どうすればいい……
どうすればいい?
どうすればいいんだ!?
必死で考えながら、頭の半分は「どうしてこんなことになったんだろう」とぼんやり考えていた。
「……分かった……」僕は結論を出した。「その友達と縁、切るよ。だから、俺のこと……」
「嫌いにならないでいて欲しい」と言おうとしたが、涙が止まらなくなって声にならなかった。
「分かった。とにかくしばらくお互いに会うのやめよう。電話も、メールも一切なしで、お互いについてじっくり考えよう。落ち着いてから会って、それから今後付き合っていくのかどうか決めよう」
電話が切れた。僕はそのまま親友に電話した。そして事情を話し、会わない約束を決めた。いつか彼が僕を許してくれる、その日まで。
もういいよ
僕は終焉を認めた
彼と会わずに過ぎた数週間。僕は、頼るべき友人も無く、ただぼんやりと時を過ごしていた。頼れる筈の親友との連絡もメールだけに限られた。
そんなある日。とあるチャットで知り合った女の子と会う約束があった。ところが、その女の子と親友とも友達で、結局3人で会うことになってしまったのである。僕は、彼との約束を……親友と会わないという約束を、その時、破った。
3人でいろんな話をして、そしていつものゲイバーに行った。その頃、僕と親友が共同でボトルを入れていて、平日は女の子も入店可というのもあってか、飲むとなれば自然とその店に向かうようになっていた。
久し振りに会う友人達。酒の勢いもあってか、僕はこれまで胸に溜め込んでいた不満を解放させつつあった。なぜこれだけ楽しいことをやめなければならない?なぜこんなに大切な友人と縁を切らなければならない?
ぼんやりと回ってくる真露を感じながら、僕は彼と別れることを決めた。今度神奈川に行ったら、その場で別れて帰ろう。かけがえの無い友人を失いたくないじゃないか。
店の中は僕達3人と店子1人の4人だけ。散々好きな話をしていたその時、一人の男性が入って来た。
それは……前に飲みに来た時に僕が格好いいと思っていた人だった。ロン毛だが髪質のいい……そしてこの僕よりもきれいな肌を持ち、常になぜかブランド物のスーツをさらっと着こなしてくる……今考えればキザな奴であるが……当時僕にとっては「一番イケる人」だった。
たまたま客は僕達3人だったため、自然と彼は女の子の側を避け、僕の側に座ることになった。いつものごとくコロナビールを飲みながら、彼は店子と少し話をしていた。
僕の目はずっと彼に集中していた。彼の見せる一挙一動。それら全てが優雅に、そして格好良く思えた。
すぐ隣で話をしているので、彼の話が否応なく耳に入って来る。どうやら彼は今日誰かと待ち合わせしていて、その相手にすっぽかしをカマされたらしい。どうりでいつになくテンションが高い。
「タイ料理食べに行くって予定だったのになぁ……一人でこれから食べに行くのもなんだしなぁ」と言って彼はさりげなくカウンターの客を見た。親友と女の子は話し込んでいて、それどころではない。残っていたのは……彼の方を見ていたのは、僕だけだった。
「……君、この間も会ったよね」彼は慣れた感じで話し掛けて来た。「これから一緒に御飯食べに行かない?」
渡りに舟の言葉だった。僕は二つ返事で応諾した。隣にいた友人に彼と食事してくる旨を伝えると、僕は彼と二人外に出た。
辛いもの好きな彼は、あまり食べ慣れていないだろう僕に随分と気を使ってくれた。店を出て、夜道を歩きながら、急に彼が僕の肩を強引に引き寄せた。
「君の匂いを嗅いでみていいかな……?」
そう言って彼は僕の首筋に唇を付けた。それは……これまで味わったことの無い、まさにセックスの為のキス、だった。そもそもこんな台詞は普通の人間なら爆笑ものである。が、彼に関しては例外だった。その全てが完成された男だった。
そのまま彼の良く飲みに行く店に連れて行かれた。店は狭く、6人くらいしか入れない。先に来ていた客は眠り込んでしまっていて、かぶっているヅラがズレてしまっていた。店子と僕と彼とで散々そのヅラで遊んだ後、店子がトイレに席を外した時、奴はキた。
「今夜……」僕の頬に指を這わせた。「……君を抱きたいんだけど……いいかな?」
返答は必要なかった。重なり合う唇がその受諾を意味していた。店子がトイレから帰って来るまでの間、僕は彼の唇の感触をずっと感じていた。
勘定を済ませて、タクシーを拾って彼のマンションへと向かった。彼のマンションは月14万円の家賃は伊達ではない、ロフト付きの豪華な部屋だった。ロフトに置いてあるアナログ盤をいじりながら、僕と奴の距離は少しずつ近付いていった。
そして、夜の闇が二人を覆い隠す。誰からも邪魔されることの無い隔離された空間。
僕は、奴を満足させるためいろいろな方法を試みた。でも反応はいまいちだった。気が付くと、奴は今にも眠ってしまいそうになっている。
「……もう……それでいいよ」奴は言った。「……寒い」
奴は完全に眠ってしまった。広い部屋に残されたのは、初めてこの家に来て、この部屋にしか通されていない、裸の僕だけだった。僕は自分が何だか物凄く馬鹿でみじめな生き物であるように思えた。
……やっぱり、僕は奴の待ち合わせ相手の代わりでしかないんだ。
そんなことは初めから分かっていたし、それでも僕は奴を満足させることが出来ると思っていた。僕が愛したなりに返って来るのだろうと。でも、そうではなかった。まるで汚されたような、そんなみじめな気持ちになって考えたのは、僕が必要だと感じた人は、親友ではなく「彼」だった。
どうしてこんなことになるまで僕は気付かなかったのだろう?どうしてもっと早く、愛されていることの大切さを認識しなかったのだろう?「彼」はこんなことはしない。僕のことを本当に本当に大切に思ってくれている。それなのに僕は?
でも、もう遅かった。僕は「彼」を裏切ってしまった。浮気までしておいて、今さらのうのうと『ごめん、俺が悪かった』などと言えるか?それで相手が許してくれて、それで僕は平気なのか?
窓から大阪の夜景が見えた。何を僕は思い上がっていたんだろう。何を調子に乗っていたんだろう。これじゃただの馬鹿じゃないか。違う。僕はそうじゃない。
でももうどうすることも出来ない。僕はまた罪を犯してしまった。「彼」に対する離反行為を。もう、駄目だ。僕は終焉を認めた。全てを終わりにしよう。そして僕はもう二度とこの世界に足を踏み入れてはならない。許されない。
今度、神奈川に「彼」に会いに行ったら、その場で別れることを告げて帰って来よう。頭を冷やさないと駄目だ。僕はそう決心した。
僕が一夜を過ごした相手が、実は日に日に男を変えて楽しんでいるだけの屑だというのを、後になって知った。
早朝の地下鉄に揺られながら、僕は周りの通勤サラリーマン達を他所に泣いていた。胸が熱かった。
全てを僕は別離で精算するつもりだった。でも、僕は大切なことをこの時忘れてしまっていた。
駄菓子屋
相手が「彼」だったから、俺は
奴と一夜を過ごした翌朝。泣きながら帰宅した僕は、まだ自分のした行為の重大さを分かっていなかった。ある種、自暴自棄になっていたこともあったからかもしれないし、実に僕が子供であることの証かも知れない。
部屋に入って、何気なくメールをチェックすると、親友からのメールが届いていた。……メールのサブジェクトがない。普段絶対にこういうことはしない奴なのに。……何だ?
それは、怒りのメールだった。怒りというよりは、僕に対して呆れたメールという方が近いかもしれない。
冷静に考えれば呆れるのも尤もだろう。僕は「外出してくる」と言ったのだ。「外出」と言う限りは戻ってくるのが普通だ。……なんと、親友は朝の3時まで僕を待っていた。
更に、僕は一緒に来た女の子までほったらかしにしているではないか。何か特別な理由でもあれば別だが、単に男に振り回されていただけである。
そもそも僕はいとも簡単に「彼」と別れることを決心してしまい、しかもその場で別の男に付いて行ったのだから、誰でも普通は(何を考えているんだ?)と思うだろう。
……でも、原因はそれだけではなかった。
翌日、深夜。僕と親友は例の店にいた。僕は散々謝った。もちろん謝ってどうこうなる話ではなかったのだが、気が付くと、時計は既に朝5時だった。
僕達は店を出た。新御堂まで出た所で、親友が言った。
「……付いて来い」
言うなり友人は勝手に新御堂を南下し始めた。どこへ行くつもりなんだろう?何を考えているんだろう?とにかく、僕は親友の早足かつ長い足に必死で追い付きながら、ひたすら後を追った。
親友が足を止めたのは淀屋橋だった。朝の淀屋橋の公園はうっすら霧がかかっていて、ゆるやかに流れる河が時間の流れを優しいものにしていた。
ベンチに座って、彼が口を開いた。
「俺はな、お前が困ったり傷付いたりしている時には全力で守ってやりたいって思うねん」
僕も、隣に座った。周りはとても静かだった。
「でも、それはお前が楽しい状況に至るために俺が犠牲になるってこととは違うと思う」
僕は、それは確かにそうだと思った。
「……彼氏とはどうするん?」親友が尋ねた。
「今度会ったら、取り敢えず別れるつもりはしてる」
「……それでいいんか?お前?」
親友は寒そうにコートの前を押さえて言った。
「物凄くお節介なことやっていうのは分かってるけど……。でも俺が見る限り、お前ら二人むっちゃええカップルなんやで。他には無いんやで」
「でも、もう俺はやったらあかんことしてしもてるし……」
「その判断はお前がすることやない。相手がすることや。相手もその判断をする為に、次、お前と会うんやろ?」
白い息がゆっくりと消えて行った。
「お前と縁切ったのも、相手が『彼』やったからや。もし他の男やったら、俺がそんなことする訳ないやろ?俺はお前と『彼』のことを……『彼』がお前見る時の目を俺は知ってるから、だからそんな無茶も聞いたんやないか。それを……」
親友はゆっくりと立ち上がった。
「……あんな奴と……」
時間は、本当にゆっくりと流れた。湿った冷たい空気が、頬に心地良かった。
「『彼』と別れるとなればそれでいいんか?そんなもんなんか?仮に『彼』と別れるとして、なんであんな奴やねん?それじゃ俺の……」
僕は親友を見た。親友は僕に目を合わそうとせず、ただ、川の方を向いていた。
「……身を引いた俺の立場が無いやないか……」
その一言で、僕は自分がやってしまったことの認識していなかった部分を知った。そして、親友が決してこの霧の中でしか言えない気持ちを。
僕は心底、この時神様に感謝していたのを覚えている。僕のことをこれだけ気遣い、見ていてくれるこの親友と出会えたことに。
「……分かった。全部『彼』に話して、それから考えるよ。これからどうするのか。二人でうまくやっていく道は無いのかどうか」
「そうやねん!そうなる筈やねん!」
僕はびっくりしてしまった。突然、親友の様子が変わったからだ。さっきまでの陰鬱な表情とまるで違う。
「そうするべきやねん!それでええねんって!」
その時の親友の見せた顔が、あまりに優しくて、そして僕は何だか照れ臭くて笑ってしまった。
誕生日に親友がくれた銀の指輪は、今も大切にしまってある。今は直接指にははめていないけれど、僕にとっては大切な友情の証だ。銀の太陽は、今も僕の胸の中で輝いている。
そして僕はまだ忘れたままだ。親友に「ありがとう」という言葉を未だに伝えていないことを。いつか、その言葉を言える日が来るのだろうか。
"kid in a candy store"。駄菓子屋の中の子供。親友がその時の僕を指して言った言葉だ。後に、『彼』からも同じ言葉で怒られることになるこの言葉は、僕を戒める座右の銘になりつつある。
深い夜と海
いつか僕がこの海で自分を見失った時に
1997年2月18日(火)
全て、許されてしまった。全ての罪は、漆黒の夜の海の中に流されて行ってしまった。そして、その流された罪たちは、広い孤独の海の果ての、いつか名前を忘れてしまった一つの島に、ガラスに映る夜の街の家々の明かりの一つに、流れ着いていったのだ。
いつか、僕がこの海で自分を見失った時に、再びその罪の残照に出会うこともあるだろう。いつか、僕がこの海で自らの罪を忘れ、驕るようなことがあれば、再び僕はあの冷たく暗い海の底に、帰らなくてはならなくなるのだろう。
でも、今は、この夜の街を遙か見下ろすこの部屋で、僕は君に許しを乞おう。この海に再び太陽が昇るように。
(ホームページの日記より)
朝 - 新聞配達人はその時が来たことを告げる
新聞が玄関ポストに入れられる音で目が覚めた。今日はいよいよ彼に会う日だ。机の上に新幹線の切符が置いてある。もう後戻りは出来ない。全ての始まりだ。
本当は午前中は大学の授業に出て、そして彼の所へ行く筈だった。でも、授業どころではない。自分を落ち着けるため、ゆっくりと風呂に入る。浴槽に湯を張り、身を沈めると、僕は更に風呂蓋を閉めた。
完全な密室が浴槽の中に出来上がる。あたかも胎児の様に、僕は暗い湯の中に浮かんでいる。そしていろんなことを考える。これから起こること、これから自分が本当にやりたいこと。本当に自分に必要なことを。
昼 - 流れ行く景色は己の物理的存在を浮遊させる
ぼんやりと新幹線の座席に身を任せながら、僕は何度か通ったその景色をずっと見ていた。
これまで何度もこの景色を見て、僕は彼の家に向かった。その景色一つ一つが、あたかも二人の思い出であるかのように。
僕はお気に入りのダウンコートに顔を埋めた。そうだ、このコートは彼とお揃いのクリスマスプレゼントなんだった。もし別れてしまうのだったら、これを着て行くのはマズかったかもしれない。今さらそんなことを考えてみたりもする。
柔らかなコートの感触を頬で感じていると、ふと周りの景色に僕自身が溶けて行くような感覚に襲われた。新幹線と横に並び、山々を突き抜け、浮遊している自分に。全ての景色を、全ての思い出を突き抜けながら、ただ彼の元へと向かおうとしている自分に。
夕方 - 少なすぎた荷物は全ての終焉を告げる だが
新横浜駅に到着した僕を、彼はいつもと同じように迎えてくれた。でも、僕の荷物があまりに少ないことを見た彼は、そのまま黙って車へと僕を案内した。
公営駐車場に止めてある車に乗った。重い沈黙が流れた。
「……もう、駄目か?」彼が言った。僕は、その一言を聞いた瞬間、どうしようもなくなって泣き出してしまった。本当は、その場で全て話して謝って、そのまま帰るつもりをしていた。でも、張り詰めていた糸が切れてしまったように、僕は胸の奥から溢れる熱い悲しみを抑え切ることが出来ずに、ただ泣いてばかりいた。
僕は、自分が浮気してしまったことを彼に告げた。そして自分にはもう彼と付き合うだけの資格が無いということを。
「……そうか」。彼は深いため息を付くと、車にエンジンをかけた。「……取り敢えずこの駐車場出よう。話の出来る場所へ行こう」
新横浜駅から車で約30分。いつものように彼の家へ向けて車は走って行く。僕は相変わらず、すすり泣きを続けているだけだった。
ところが。高速の分岐点で、なぜか車はいつもと違う分岐へ向かった。なぜだ?家へ向かうんじゃない。どこへ?
彼の顔を見たが彼の顔は険しく、そして前を見たまま黙っていた。
僕は関東の道を殆ど知らない。でも、なぜか彼が車を向けている道の景色には見覚えがあった。僕が知っている景色。あるとすれば……あそこしかない。僕と彼が初めて二人で出かけた場所、みなとみらい。
間違い無く車はみなとみらいに向かっている。今さらランドマークタワーへでも向かうというのか?そんな場所でこれから話をするつもりなのか?彼は何を考えているんだ?
ランドマークタワーの目の前の信号まで来て、初めて彼は口を開いた。「……もう、泣くな」
そして、車は僕の全く予想していなかった行先へ……ランドマークタワー内のロイヤルパークホテルニッコーの駐車場へと入って行った。
ホテルのロビーで、ただただ僕は呆然としていた。僕は彼に浮気までしてしまったことを告げている。わざわざホテル……それもこんな一流ホテルに連れて来てどうするつもりなんだ?
やがてチェックインを済ませた彼が鍵を手にやってきた。
通された部屋は……地上59階。窓は一面ガラス張り。見れば目の前にコンチネンタルホテルがあり、眼下は横浜の海。一体これはどうしたことだと驚く僕に、彼は言った。
「誕生日、おめでとう」
誕生日!そうだ。今日は僕の誕生日だったんだ。
「お前の誕生日にはここへ連れて来てびっくりさせてやろうって、ずっと前から思ってたんや」
その言葉に、やっと泣き止んだ筈の僕はまた涙が止まらなくなってしまって、彼に泣き付いてしまった。僕の頭を撫でながら、彼が言った。
「お前をここまで追い詰めてしまって、辛い思いさせてしまってごめんな。……もう俺のこと嫌いになってしまったか?もうやり直せへんのか?」
夜 - 全ての罪は夜の海に流れ 涙に浄化される
それは僕が謝らなければならないことだ。僕は慌てて彼の言葉を訂正した。非があるのは僕の側だと。
「ええんや、お前に俺の気持ちを考えろと言っておきながら、俺もお前のこと考えてやれずに友達と縁切れなんて言ってしもたんやし。これから俺もお前のこと考えるようにするし、お前も俺の気持ち考えて行動するように努力してくれるか?」
でも、僕は裏切り行為までしていて……。
「そこへお前を追い詰めてしまったのは俺なんやし。もうそのことは気にせんでええねん。問題は、これからや」
僕は必死で彼にしがみついていた。もう迷わない、もう放さない、悲しませない。もうこの人を傷付けない。彼の気持ちを、愛されているという事実を、自分の誇りを失うようなことはしない。
気が付くと辺りはすっかり暗くなっていた。横浜の夜景が窓一面に見えた。
「お前に俺は期待し過ぎやったんやな。いろんなこと。それを結局全部お前の責任に押し付けて、お前にとってそれが重荷になってしまったんやろ」。ぽつりと彼が言った。
でも僕は知っている。その原因は彼だけでなく僕にもあることを。二人の問題なのだ。
「これからもひとつよろしく頼むわ」。照れ臭そうに彼が言った。その彼の仕種が、全てが幸せに思えて、僕は数日振りに心の底から笑った。僕はまだ、歩いていける。この人と。
急に彼は立ち上がって、大きく伸びをして、言った。
「腹減ったな。中華街行くか!」
《第一章 完》
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