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第三十四話「ワークショップ」2024年7月21日日曜日 快晴

 アラームよりだいぶ早く目覚めた。緊張はしていないが、気持ちは昂っているらしい。
 大切な1日になる。思考を鈍らせたくない。朝食はヨーグルトとプロテイン、小さなマフィンをひとつだけとした。
 大型スーツケース二つに機材や配布資料、そして販売ブースのクッキーと什器がパッキングされている。N美さんと二人で手分けして持つ。それぞれがさらにリュックを背負っている。重い。
 玄関ドアを開けると、猛暑日の温気が部屋に傾れ込んでくる。暑い。
 熱気と日差しに溶けそうになりながら、ワークショップ開催時刻の2時間前に会場に着いた。
 会場は地階。流石の酷暑も地下までは届かず、幾分か過ごしやすい。
 2回の下見のお陰で勝手知ったる会場だ。デスクと椅子を並べていく。
 私はワークショップの機材と投影の準備、N美さんは販売ブースの設営を黙々と進める。
 仕事とは準備が8割、とはよく言ったものだ。入念に準備したお陰でなんのトラブルもストレスもない。
 ワークショップ開始直前。二人でどちらからともなく手を差し出した。
 二人だけの円陣。言葉はないが成功を祈って私たちは片腕を天に向けた。

 参加者が揃い、定刻となる。ワークショップの開始だ。心の中でホイッスルが鳴った。
 簡単な自己紹介、ワークショップの最終ゴールから始め、コーヒーとはそもそもどんな飲み物なのか?抽出においてコントロールすべきポイントを説明する。スムーズな滑り出しだ。
 コーヒーを抽出する。単純な作業であるがいくつかのポイントがある。そのポイントはさながら音響機器のフェーダーのようにコントロール可能だ。実際はつまみをスライドさせるようにはいかないのだが、図解すればそのようになる。
 苦味が欲しいのであれば、「焙煎度合い」のつまみはより黒い方へ、「抽出温度」のつまみはより高い方へスライドさせるのだ。
 このような各種ポイントとフェーダーを説明していく。
 説明の後は、実演だ。抽出の動作にもポイントがある。フェーダーで調節した好みをその通りに抽出することが要諦となる。
 お湯の注ぎを4回に分け、一回ごとに時間と湯量を測る。そして、すべての粉に均等にお湯が行き渡るようにする。解説を加えながら実演し、その後は参加者自身が抽出、皆で試飲をして感想を述べあう。
 豆もレシピもオペレーションも同じだが、注ぐ湯量の多少や勢い、注ぐ位置などで味わいは変わる。見事に全員の味わいが異なった。
 狙い通りだった。
 条件を揃えても抽出方法だけでコーヒーの味わいは変わる。逆説的に言えば、コーヒーとは、味わいに幅を持たせられる飲み物なのだということを体感してもらいたかった。
 頂き物の豆がハズレだったということはあるだろう。ショップスタッフが勧めてくれたが、自分好みではなかったなどもあり得る。しかし、ハズレから自分好みへコントロールする事が可能なのがコーヒーなのだ。自宅でコーヒーを飲むという醍醐味でもある。
 それを知ってもらうのがこのワークショップのゴールだった。

 ワークショップを終え、参加者の方々は皆「楽しかった」と口にしてくれた。
 船長が用意してくれたお茶請けとお土産クッキーも好評だった。ありがとう、船長。
 販売ブースの買い物は参加者の方々のみとなった。地階ということもありフリーでの来店者はなかった。告知方法などは今後の課題だった。

 撤収作業も順調だ。ワークショップ後の高揚が身体に残っていたが、会場の明け渡し時間が迫っている。私たちは黙々と撤収作業を進めた。

 打ち上げはすぐ上の焼肉屋で行った。レンタルスペースのオーナーの本業は、この焼肉屋なのだ。
 私は生ビール、N美さんは黒豆マッコリをオーダーした。
 レンタルスペースのオーナーであり焼肉屋の社長が自らグラスを持ってきてくれた。
「これはお店から〜」とオーナー兼社長が言った。憎い事をしてくれる。
 私たちは遠慮なくグラスを受け取った。
 そして、お互いを労ってグラス掲げた。
「お疲れ様でした」
「本当にありがとう。ーー乾杯」
 熱を持った喉を流れ落ちるビールは、とてつもなく美味かった。

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