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第三十五話「能天気」2024年7月22日月曜日 晴れ時々ゲリラ豪雨

 ワークショップの翌朝。身体が重い。打ち上げで飲み過ぎたわけではない。アルコールの鈍重さではなく、心地いい疲労と熱気が籠った重さだった。
 できることならこのままベッドで微睡んでいたいが、無職に暇なしだ。バイトのワインバルに行かねばならなかった。
 バイト先は、ワークショップ会場であったレンタルスペースの斜め前にある。手近なところで済ませたわけだが、ホームタウンとはそういうものだろう。
 汗をかきかき手早く開店準備を済ませ、看板を裏返して開店した。ほどなくするとレンタルスペースのオーナー兼焼肉屋社長が来店した。彼はよくこうやって休憩に来てくれる。私が失業し、バイトになってからはその頻度が増えていた。気にしてくれているのだろう。彼の優しさには気づいているが、必要以上に謙らないでおく。男同士の友情とはそういうものだ。
 彼は、アイスコーヒーをオーダーし、私にはビールを奢ってくれた。
 軽く乾杯。お互いに昨日の労をねぎらった。
 オーナーが関西の温かなイントネーションで言った。
「サトウさんはすごいですねー。初めてのワークショップを大成功って言っちゃうんだから」
彼の言葉は皮肉でも嫌味でもない。彼は続ける。
「うちのスペース、いろんな人が使いますけどセミナー形式の人はたいてい『あれがよくなかった』『あれが足りなかった』『ここをこうやれば良かった』って悪かったところばっかり数えてるんですよ。サトウさん、全然言わないですねー」
 確かにそうだった。始まる前からおかしな自信があり、ワークショップ中は本当に楽しく、終わってからは充実感しかなかった。まだその余韻に浸っているくらいだ。
 私は
「能天気なんでしょうかね?」
と答えながら、胸の内で否定した。実は私は異常なほどに心配性だ。子どもの頃から失敗を恐れ、マニュアルとルールにしがみついていた。
 このワークショップにマニュアルもルールもなかった。無いなりに自分で作るしかなかった。
 オーナーが言う。
「能天気。いいじゃないですか。反省。後悔。自己批判。いつでもできますよ。そんなのに囚われて次の一歩を思い悩んでたら、なんも始まりませんわ」
私はうなづく。貯金無し。借金あり。周囲の助けでアルバイトはあるが、ずっとこのままというわけにもいかない。足掻いて、もがかなければ何にも引っかからない。
 オーナーは言う。
「成人した後、脳の機能はどんどん衰えていきますよね?でも、50歳から55歳辺りに一度冴えてくるんだそうです」
ほう。私とオーナーは同い年。52歳になる。
「これまでの経験や知識を統合して、全体的な判断をするのに向いた機能に偏っていくらしいです」
 それがこの妙な自信や充足感に繋がっているのか?それはわからない。
 わからないが、オーナーのいう脳機能の恩恵なら、それはあと三年しかないことになる。
「今が頑張り時ですよ」とオーナーが言った。
 私の拙い経験と浅薄な知識が、どんな判断を下すのだろうか。
 タイムリミットまであと三年か。
 私は言った。
「お互いあと三年。せいぜい楽しみますか」
 オーナーは答える。
「サトウさんは、やっぱり能天気ですわ」
 私たちは笑いあった。

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