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About me - 発達障害の私が生きる日々

はじめに

 少し人見知り、好奇心旺盛。趣味は読書と音楽、カフェに行くこと。
 誰かに自分のことを紹介するとき、私は大抵このように伝える。そして、いつも言いたくて、結局言えずにそっと心にしまう紹介がある。

 「私は発達障害者です。」

 今、私はここで、これまで叶わなかったたくさんの自己紹介を、思うままに届けたいと思う。

 私は、現在某私立大学で文学を学んでいる。推奨されているカリキュラムのペースからは大幅にゆっくりペースなのだが、毎日楽しく講義を受けている。
 私が発達障害であると診断されたのは、大学一年生の六月のこと。入学してから周りと同じように履修登録をし、広い教室で授業を受ける日々。これからの大学生活に大きな期待を抱いていた。学業では良い成績を取って博物館学芸員の資格を取得したいし、サークルに入ってたくさんの友人を作りたいし、アルバイトもして長期休みには旅行に行きたい。入学してから一か月は一瞬で過ぎた。課題に追われる時間さえも充実感で溢れていた。
 しかし、そんな私は五月下旬に体調を崩すことになる。外に出れば人の視線を異様に感じ、大学の教室にも居づらくなった。楽しかった講義にも全然身が入らない。自分はどこかおかしいのではないかと不安になり、母と精神科を受診したところ、発達障害であると診断された。
 発達障害とは、生まれつきの脳の特性による物事の捉え方や行動の仕方が原因となって、社会の中で生きづらさやトラブルを抱えている状態のこと。発達障害にはいくつか種類があり、私はその中の、コミュニケーションや対人関係につまずきやすく、こだわりが強いという特徴がある自閉スペクトラム症にあたる。
 発達障害の私が、日々何をどう感じ、どんな風にして今生きているか、少しでもここから覗いていただけたら嬉しい。

■きっかけ
 まずは、私が自分のことをこうして文章に残そうと思ったきっかけを書いておこうと思う。
 私が生まれ育ったのは、長野県の田舎町。高校を卒業するまでクラス替えを経験したことがなく、物心ついた時から大学に進学し町を出るまでほとんど同じコミュニティの中で過ごした。だから、改めて自己紹介が必要になったのは、大学に進学したタイミングだった。そして、そのタイミングで私は自分が発達障害であると知ることになる。新しく出会う人に自己紹介をするたびに、発達障害であることを伝えようか伝えまいか迷った。自分が発達障害であることを恥ずかしいとか、隠したいとか、そう思ったことは今まで一度もない。むしろ、私は発達障害であることがとてもしっくりきていたし、感覚としては冒頭でも述べたように、人見知りや好奇心旺盛といった要素と同じ並びに「発達障害であること」が存在する。
 ではなぜ、自分が発達障害者であることを言いづらいのか。私が感じている理由は、それを伝えることで相手を困らせてしまうのではないかという不安があること。そして、自分のことを誤解されてしまうのではないかと感じること。
 最近では、何かと話題に上がることも増えてきたので、発達障害という言葉を耳にすることは増えたが、専門家や当事者でない限り、それについて理解があるという人は多くない。自己紹介で「発達障害」という言葉が出てきたら驚いてしまう人が多いだろう。「障害ってことは、どこか病気なのかな」とか「よくわからないから触れないでおこう」とか「関わりづらそうだな」なんて思う人もいるかもしれない。こうなると、自分を知ってもらうために伝えた情報が、相手を困らせたり、相手に気を遣わせたり、自分のことが上手く伝わらなかったりする原因になってしまう。では正しく理解してもらおうと、発達障害について一から説明しようとすると、それはまた時間がかかるし、その場の雰囲気もなんだかちぐはぐなものになってしまう。そこで思いついたのが、好きな時間に、何度でも、どこからでも読んで、私のことを知ってもらえるように文章に残し、本として形にすることだった。これなら、自分のことをもっと知りたいと思ってくれる人がいた時や、自分のことを説明する時に、そっと本を渡せばいいし、その場もちぐはぐな雰囲気にしなくて済む。さらに、私としては、言いたくても言えないという葛藤から離れることが出来る。
 だから、これは、あくまで「発達障害」についての本ではなく、「発達障害である私」についての本なのだ。一方的に自分のことを知ってもらおうというのは、少々、というか、だいぶ図々しい気がするが、こんな人もいるんだな、こんな生き方もあるんだなと、気楽に読んでいただき、「それなら自分の毎日も悪くないな」と日々をほんのちょっと前向きに捉えるきっかけになることが出来たら、というのが小さな願いだ。

■日々の行動細案
 自閉スペクトラム症には、臨機応変に行動することが苦手であるという特性がある。例えば、当初予定されていた時間の変更、場所の変更、内容の変更などが起こると、それに対して自分の考えていた計画が水の泡となりパニックになる。瞬時に計画を立て直すことが難しいのだ。
 私は、毎日、すべての事柄に対して綿密な計画を頭の中で練っている。今日寝る時間、明日起きる時間、朝ごはんのメニュー、ゴミ出しの手順、家を出る時間、電車の時間、バスの時間、交通ICカードの残高、行くお店の開店時間と閉店時間、天気予報、服装と持ち物、鞄の種類…といった具合で、多くの情報が常に頭の中に張り巡らされ、私はその情報を使い一日の流れを一字一句言葉にしてスケジューリングする。毎日、修学旅行のしおりを製作し、それに沿って行動しているといったイメージだ。だから、スケジュール通りに物事が進むうちは特に困ったことはないのだが、少しでも違ったことややむを得ない変更項目があると、それだけで焦ってパニックになってしまう。ここで述べておきたいのは、私のパニックは周囲にはあまり表出しないということだ。当初の自分のしおりにない何か変更があり、急にその状況に応じて行動しなくてはいけなくなった時、周りの人には、私がなんなく臨機応変に行動していると映るだろう。しかし、私の中は大パニック状態で、莫大なエネルギーを使ってなんとかしおりを書き換えながら、平静を装っている。
 常に多くの情報に触れ、細かく行動細案を練ったり、変更項目があった時には、莫大なエネルギーを消費してなんとか乗り越えたり、定型発達の人が少しのエネルギーでなんなくこなすことを、私はいちいちエンジンをふかし全力でアクセルを踏みながら、厚いしおりを片手に、日々生活している。

■ひとりと、誰かと
 私は普段、その時間のほとんどをひとりで過ごす。一人暮らしをしているので、家から出ない日はもちろんひとりでいるのだが、外出する時も、特別な予定がなければ大体ひとりだ。ご飯を食べに行ったり、カフェでのんびりしたり、本屋に行ったり、映画を見たり。
 私はとにかく、ひとりでいることが好きなのだ。誰かに気を遣うこともないし、自分の思うとおりに振る舞えるし、その気楽さは言うまでもない。「日々の行動細案」でも少し触れたのだが、とにかく私は過度に様々な情報が頭の中に入ってきてしまう。だから、誰かと一緒にいるということは、それだけ取り込む情報も増え、また、それに伴って、考えることも増え、とても疲れてしまうのだ。自分の考える行動細案や自分のルールと、実際の行程や行動が、誰かといることによって常に少しずつ乖離し、それに対して自分で折り合いを付けることにたくさんのエネルギーを使ってしまうからという面もある。
 しかし、私は決して人と関わることが嫌いというわけではない。むしろ実は、人と関わること自体はひとりでいることと同じくらい好きなのだ。ただ、自分のエネルギーを、人と関わるに至るまで残しておけないことが多いため、自ら人と関わりにいく機会が極端に少ない。しかし、その分、ひとつひとつの出会いや関係に対して、丁寧に向き合える。
 そう思えるようになった最近まで、心の底には憧れもあった。気楽にご飯に誘ったり、なんでも打ち明けられたり、相談されたり、夜通し電話をしたり。そういう関係の人がたくさんいる、そしてたくさんの人の中でたくさんの繋がりを持てる、そういう人間関係が素晴らしく、それが出来る人が凄いと思っていた。
 誰とでも同じくらいの深さで交流ができる小学校低学年から、徐々に気の合う人同士でグループが自然と形成されていく小学校高学年になった時、私は周りのクラスメイトと同じようには人と関われていないように感じ始めた。あまり興味が持てない女子同士の会話、いつまで経っても私だけ変わらない「さん」付けの呼ばれ方、内容の濃い話や誰かの秘密の話は、わたしのところまで回ってこなくなった。仲が悪いわけでもなく、クラスの中で孤立し浮いているわけでもない。でも私はひとり、ほかの人たちとは別の世界にいるようだった。そう感じながらも、それから高校を卒業するまで、なんとかみんなと同じ世界にいなくてはならない、みんなと同じように誰かと特別な仲にならなくてはいけない、こんな違和感を抱いていること自体がおかしいんだ、ととにかく周りに溶け込もうとすることが苦しかった。
 しかし、自分が自閉スペクトラム症だと知ってからは、その苦しさや、人との関わりで使うことが出来る自分のエネルギーの量やキャパシティ、自分に合った人との関わり方を自覚できるようになった。今では、自分が心から惹かれた人には自ら声を掛けたり、いわゆる一般的な特別で深い仲を目標とせず、自分にとって居心地の良い距離感で長く関わったりと、自分のスタイルが確立してきた。幸せなことに、私には素敵な出会いがたくさんあった。これからも、ひとりの時間と、人と関わる時間、どちらも大切にしながら日々生活していけたらと思っている。

■お守り
 発達障害者の中には、感覚の過敏さを持っている人もいて、私もそのひとりだ。私は特に視覚と聴覚が敏感で、無防備で外出すると気分や体調が悪くなることがある。
 そこで、私は外出する時にはいくつかお守りを身につけて出掛けることにしている。ひとつは、ノイズキャンセリング機能の付いたイヤホンをして耳に入ってくる音を遮断する、帽子を被って視野を狭め、目から入ってくる情報を少なくする、色の薄いサングラスを掛け光の強さを調節する、といったような物理的に過敏さを軽減するお守り。もうひとつは、いつも付けているアクセサリーを身につけ、不安な時や緊張が高まった時に触って気持ちを落ち着かせたり、精神科で処方された不安感や緊張を和らげる薬を飲んだりといった精神的に刺激や緊張を抑えるお守りだ。
 最初は、物理的なお守りだけだったのだが、ある大切な人からブレスレットを貰ったことをきっかけに、最近では精神的なお守りも必ず身につけるようになった。もともと私はファッションにまったくと言っていいほど興味がなく、アクセサリーもひとつも持っていなかったのだが、それも少しずつ増えている。憂鬱な予定がある時や気分が乗らない日も、アクセサリーを身につけることで少し気分が上がるので、毎日楽しみながら支度をしている。

■「なんか違う」との共生と言葉
 自閉スペクトラム症の特徴のひとつに、こだわりが強いということが挙げられる。私が自覚しているのは、言葉へのこだわりだ。私は常に、その時の感情、考え、伝えたい趣旨に最も合う言葉、文章を探している。しかし、探し当てるのには時間が掛かるし、そもそもしっくりくる言葉が見つからないなんてことも日常茶飯事だ。だから、誰かと会話している中でも、私の中には「なんか違う」が溜まっていくことになる。会話というのは突発的で、流れも速い。私が、日常の会話や人前での発言で、その言葉選びと構成した文章に心から納得したことはおそらくほとんどない。
 そのかわり、存分に時間を掛け、言葉を選んで文章にし、こうして文字にしたものは、自分の理想にだいぶ近いものになっている。そして、私の中での究極の理想は、うただ。私は中学二年生の冬から現在に至るまで、何か大きく感情が動いた時、強く誰かに伝えたいことがある時などに、うたを書いてきた。小さい頃から音楽に馴染みがあった私は、選び抜いた言葉に、音楽の力を加えて、ひとつの形として残すことが、自分にはとても合っていると思った。だから、私のうたは、その時の自分の感情であり、誰かへの手紙であり、日々の「なんか違う」の積み重ねであり、言葉へのこだわりが形になった理想形なのだ。また、面白いことに、私は自分の調子が良い時はなかなかうたが書けない。逆に調子が悪い時には、週に何曲ものうたを書くことが出来る。うたの制作が、自分の調子のバロメーターになっているのだ。だから、たくさんうたが書きあがった時期は、今自分は調子があまりよくないんだなと、普段よりも多く休息を取ることにしている。自分のこだわりが、自分の調子を教えてくれるというのは、最近気づいたことだ。
 これからも、言葉に対するこだわりは大切にし、「なんか違う」を積み重ねながら、うたを書き、休息を取り、また充実した日々を過ごす。そんな繰り返しだと思うのだ。

■エネルギーの意識化
 これまで、私は何度も「エネルギー」という言葉を使ってきた。多くの人は、普段生活するのに自分のエネルギーについて深く意識することは少ないだろうと思う。実は、発達障害の人の中には、定型発達の人に比べ、使えるエネルギーが少なかったり、エネルギーを使う場所が違ったりする人がいて、私もそれに当てはまる。私は一日に使えるエネルギーの量がほかの人よりとても少なく、そのエネルギーを使う場所も多くの人とは異なっている。
 例えば、現在の大学生としての生活で考えると、一日に何コマも講義を受けるエネルギーが私にはない。また、毎日大学に通って対面で授業を受けることも難しい。そこで私は、四年間で卒業することは目指さず、自分のペースで履修することにした。一日一コマ、週に五コマの授業を受け、そのうち半分はオンライン授業を履修しているので、実際に大学に行くのは週に二回ほどだ。この履修ペースは、多くの大学生の二分の一くらいのペースということになる。このペースが私にとっては最適なのだ。
 また、エネルギーを使っている場所を考えると、先にも述べたのだが、頭の中での行動細案の制作、それが上手くいくかどうかという大きな不安感と緊張感への対応などに私は多くのエネルギーを費やしている。
 このエネルギーが枯渇すると、元に戻るのに長い時間が掛かる。私の場合、休んでいても多くの情報の処理にエネルギーを使っているので、一度減ってしまったエネルギーを貯めるのも一苦労なのだ。
 そこで、私は自分が使えるエネルギー量と、どこにどのくらいそのエネルギーを使ったかを意識するようにしている。少し使いすぎたなと思ったら、一度立ち止まって休憩したり、無理にやり遂げようとするのをやめたり、とにかくエネルギーが減りすぎないように気を付けている。厳選垂れ流し温泉をイメージしてみてほしい。浴槽に溜まっているお湯が保持しているエネルギー、浴槽から溢れていくお湯が使って減っていくエネルギー、蛇口から浴槽に流れ出るお湯が休息などを経て再び使えるようになったエネルギーだ。浴槽なみなみとまではいかなくても、浴槽の七割ほどお湯が溜まっている状態を維持出来たら、それはもう私にとって上出来なのだ。

■完璧主義者が「手を抜くこと」を身につけるまで
 とにかく私は、言葉だけではなく、何に対しても自分にとっての理想的世界観を抱いてしまう。そしてそれを何とか形にしようとするため常に完璧を追い求めようとする。また、自分の中のルールやルーティンにこだわるため、「適当」や「だいたい」のレベルで物事を進めることが難しい。つまり、適度に「手を抜くこと」が苦手なのだ。
 しかし、そんな私も日々成長しているので、少しずつ「手を抜くこと」を上手く行えるようになってきた。例えば、朝の支度だ。もともと私は出掛けるための準備に物凄く時間が掛かっていた。今日は時間がないからこの行程を省略しようとか、このアイテムがないから違うもので代用しようとか、そういうことが全くできなかった。ゆえに、準備を始めてから家を出るまで二時間以上掛かっていた。しかし、今では、起床して朝ごはんを食べ、身支度を整えて家を出るのに掛かる時間は三十分程度だ。予定に合わせて何かを省略したり、ホテルに泊まった時などいつものアイテムがない場合に違うものや方法で代用したりすることが出来るようになったのだ。ほかにも、人とのコミュニケーションで「手を抜くこと」が出来るようになった。以前は、店員さんとの何気ない雑談や友達との世間話でも、必要以上に神経質になって一言一言全力で受け答えをしていたため、エネルギーをそこで使いすぎてしまい疲れることが多かった。その影響で、コミュニケーションに対して苦手意識を持っていた。しかし今では、全力でコミュニケーションを取る場面と、軽く受け流してあまりエネルギーを消費しないようなコミュニケーションを取る場面を分けられるようになった。だから以前は難しかった店員さんへの試着の希望や、試着しても今日は購入しないなどという趣旨を焦らず伝えられるようになった。誰かとの雑談でも、今は手を抜いていい場面だなと思えば、自分の中で入ってくる情報と使うエネルギー量を調節できるようになった。
 これには、自分に完璧主義な一面があることを自覚し、その上で、完璧じゃないことがあってもいいんだと思えるようになったことが大きい。そのおかげで、手を抜いた分のエネルギーをほかのところに使えるようになり、活動の幅も増えた。
 「手を抜くこと」を受け入れることは、なかなか簡単ではないのだが、「手を抜くこと」で楽になること、逆に出来るようになることもあるのだなと、今も学んでいる最中だ。

■マイナス感情からの逃避
 私が苦手なもののひとつに、人のマイナス感情がある。怒りや焦り、落胆など、とにかく人のマイナス方向の感情には出来る限り触れないでいたい。その結果、私は人に対して、必要以上にその相手が自分に求めているだろう人物でいようとしてしまう。「いい子」でいることで人のマイナス感情に触れることを避けている。わかりやすく言えば究極の八方美人なのだ。だから、一対一で接しているときは、その相手にとっての理想の自分はひとつなのでその自分で振る舞えばよいのだが、同時に接する相手が二人以上になった時は、どの自分で振る舞えばよいかわからなくなる。
 昔からどちらかと言えばなんでもこなせてしまうタイプだった。逆に言えば、自分の中で少しのミスも許されないと思い込んで生きてきた。少しでも相手の思っていることと違うことをしてしまったら、少しでも自分のミスで相手を嫌な気分にさせてしまったら。そんな不安と隣り合わせで生きてきた。今では、周囲の人が、たとえ何か私が失敗しても、それとは関係なく自分のことを受け入れてくれるとわかっているのだが、しかしそれがわかるようになったのも最近の話で、相手が求める自分であろうとする癖は染み付いてしまっている。それは、年齢が高くなればなるほど強くなった。高校生までは家族で囲めていた食卓も、今は苦しくなってしまうので先にひとりで食べさせてもらっている。家族の人数分、それぞれの私に対する理想があると考えてしまい、ここでもどの自分で居ればよいかわからなくなってしまい、苦しくなってしまうのだ。
 しかし、ここで私が声を大にして言いたいことは、家族一人一人のことが嫌いだったり苦手だったりということはまったくなく、みんなそれぞれ好きだということだ。そしてこれは家族以外の、関わっているどの人にも言えることだ。このことを、上手く伝えられないことも、私としては心苦しかったので、今ここで言葉に出来たことはとても大きい。もう二十年以上この方法で生きてきたので、すぐに変えていくことは無理なのだが、少しずつでも、自分を縛ってきたものを解いていくことが出来たらなと思っている。私は恵まれている。周りには私が失敗だと思ってきたことも、プラスに変換してくれる人がいる。たくさん助けてもらいながら、「等身大」の私で生きていけるようになりたい。

■たくさんの好きなものたち
 趣味は何かときかれたら、ありすぎて困ってしまうほど、私は好きなものがたくさんある。全部は書ききれないので、私の定番の休日の過ごし方を紹介したい。
 早起きは苦手ではないので、朝は七時頃にはベッドを出る。支度をして家を出てバスに乗る。イヤホンからは好きな曲が流れている(ちなみに私が好きなアーティストはヨルシカと久石譲とドビュッシー)。バスに揺られて、お気に入りの喫茶店に着くのは大体八時半。ベーコンエッグと厚切りトーストのモーニングセットを注文する。飲み物はブラックのコーヒー。この喫茶店には中庭がある。綺麗なもみじの樹が一本。のんびり眺めながら朝ごはんを食べる。そのあとは一時間ほど、持ってきた文庫本を読む(ちなみに好きな作家は森見登美彦と原田マハ、最近は新書やエッセイなども読む)。喫茶店を出て、雑貨屋、本屋を回る。特に本屋に入り物色に夢中になると平気で二時間くらい経っている。そのあとは、洋服屋さんを見たり、薬局に行ったり。そしてまた音楽を聴きながらバスに乗り、昼過ぎに帰宅。家で簡単にお昼ご飯を食べ、好きなだけお昼寝をする。これが私の定番の休日だ。ほかにも、庭や美術にも興味があるので、神社仏閣を巡ったり、博物館や美術館を訪れたりする日もある。また、最近は中国語に興味を持ち、カフェをはしごして語学の勉強をすることもある。スポーツ観戦も好きなので、一日家でテレビ中継を見ていることもあるし、映画を観に行くこともあれば、ギターやピアノで自由に弾き語りしている日もある。
 休日の過ごし方とは関係ないのだが、私は宮崎駿監督の作品が大好きだ。現在通っている大学では、宮崎作品を扱う授業があり、大学生活でもありったけの興味を持って楽しく勉強している。休日も平日も、私はたくさんの自分の好きなものとともに過ごしている。

◼️さいごに
 こんなに自分のことを文字にしたのは初めてだった。「思うままに自己紹介を」と思い書き始めた本書だが、書き進めるうちに改めて自分について、自分の生き方について知ることが出来た。これが読者の皆様にとって、何になるかと聞かれたら、おそらく何にもならないだろうと思う。だいぶ一方的で、やけに長い自己紹介になっただけだと思う。
しかし、私が、いろいろなことを考えながら、試行錯誤しながら、楽しみながら、日々を送っていることがお伝え出来たら、それだけで本当に充分だと思っている。もし、もしも、あなたがこれを読んで、もしかすると自分は日々とてつもなく頑張って生きているのではないか、明日は少しでも肩の力を抜いていこう、次の休日は好きなことをしよう、なんて思っていただけたのなら、それはこれ以上ないほど幸せなことだ。
私は、自分のことを厄介だと思うこともあるけれど、意外とそんなところも気に入っている。明日も、私らしく生きていこうと思う。


*いつか出版したくて書いた文章です、何卒。

【参考文献】
・最新図解女性の発達障害サポートブック(本田秀夫、植田みおり/ナツメ社/2019年)
・見えない違い―私はアスペルガー(ジュリー・ダシェ、マドモワゼル・カロリーヌ、ファビエンヌ・ヴァスレ/花伝社/2018年)

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