見出し画像

物事に名前があることの意味。

※時間がない人は最後のまとめ以降読んでね。時間がある人は付き合ってくれたらうれしいな。

私は最近哲学のことについて学んでいます。

なんのためかといえば色々とありますが、一番強い想いとしては、『ちゃんと知りたいから』、ではないかと思います。

世の中では実に色々なことが起きていて、それぞれにそうなるに至った経緯や歴史、背景となる制度や思想があり、それらが複雑に絡み合っています。

先の『ちゃんと知りたい』とは、これらのことを了解し、考え、時にそれを外へ出したいといったことで、もう少し平たく言えばちゃんと背景や理由を知って意見できるようになりたい、というような意味合いでしょうか。

そしてそれは結局『哲学を知る』事であり、私にとって『名を与えること』なのだと思います。

哲学を知る

月並みなことを言いますが、”哲学”というと小難しくて、自分にはあまり縁の無さそうなもの、役に立たなそうなものというイメージを持つ人がほとんどではないかと思うのですが、大学などで勉強する「~学」と名の付くようなものは、元々はすべてこの「哲学」だった、といえば少しだけ自分にも関わりのあるものかもしれないと思ってもらえるでしょうか?

ソクラテス、プラトン、アリストテレスあたりは名前は聞いたことはあるのではないかと思いますが(世界史の資料集の石膏像のおじいちゃんのイメージ?)、プラトンは国中から才ある子を集め、国家の未来のため、善き王をつくるために「アカデメイア」という後の大学の起源となる教育機関を作り、その学生であったアリストテレスは、物事の本質を見極めるためによく観察し、特徴を整理しようとしたものが現在の「自然科学」(生物学とか地学、とかいわゆる理系の学問)の始まりともいわれています。

知識が多ければ偉いわけではない

ここで大事だと思うのが、「哲学を知る」ということは、単に哲学者の名前や~主義について覚えたり、知識量が多いから偉い、とかそういうことではなくて、「どういう社会で、どんな風に考えたどんな人が、何を思って何をして、その結果どうなっていったのか」を知ることであると思います。

ソクラテスのエピソードを少しほりさげてみる

例えば先ほど登場したソクラテスという人を例にとると、彼はよく『無知の知』という言葉で知られ、街中で政治家たちに問を吹っかけては論破して彼らに恥をかかせ、ついには恨みを買い死刑を宣告されてしまうことになる、なんてエピソードが有名ですが、これもどうしてこんなことになったのか、背景を知らなくてはただの昔話になってしまいます。

余りに長くなるのでかなり省略して書きますが、ソクラテスの生きていたころのギリシャの時代背景を少しさかのぼると、エジプトなど近隣の国との貿易も盛んになり、自分たち以外の文化に触れはじめます。それまで、世の中の出来事は、例えば雷が鳴ったらそれはギリシャ神話のゼウスの仕業、のような神話で説明されてました。しかしエジプトから来た人に「ゼウスが」と話しても全く通じません。そこで神話に変わる、物事を説明するための概念が必要になってくると同時に、それまで自分たちが絶対だと思っていた神話が揺らぎ、真理や正しさや人それぞれである、というような考え方が広まります。(相対主義、って言われるものですね。)

そんな中、当時の政治家や知識人たちが街で公開討論を行う際に、この相対主義的な議論が用いられるようになります。政治家といえば「世の中はこうあるべきなので、~のために~をしましょう!」みたいなことを考え、語り、行政と連携して実行していくようなことが求められるわけですが、具体的に「~のようにあるべき」といえば、「それって絶対的に正しいんですか?」「結局それってひとそれぞれですよね?」という反論をされ、議論に負けてしまいます。
こうして口先だけはうまいけれど中身のない扇動政治家が増え、市民はそれに煽られるがままお飾りの政治家を選ぶ衆愚政治がはびこる世の中になってしまいました。

そこへようやく登場、ソクラテスが政治家たちに議論を持ちかけるわけです。彼は「たしかに絶対的に正しいことなんて分からないけれど、それでも真理の追究をしようよ」という想いを持った人であったといわれ、なんでも相対主義で正しさを追究することをやめてしまった社会に対して異議を唱えます。
たとえば「国のため、正義のため!」なんて言っている政治家に対して、「今正義って言ったけど、正義ってなんだか分からないから私に教えてくれないか?」と投げかけます。
そして「正義とは正しいことだ」と答えれば、ソクラテスは「では正しい、って何?」のように問いかける。

自分の知らない正義のことをさも知っているようにしゃべっていた政治家は答えに詰まってしまう。そしてソクラテスは「まずは知らないことを認めるところからはじめて(いわゆる『無知の知』なんていわれるものですね。これについては少し後述。)、一緒に考えようよ」、と。このようにして決まりの悪い思いをした政治方たちから恨みを買い、裁判にかけられて死刑を宣告されてしまうことになる、そして自らの真理を追究する姿勢がゆえに、死刑になる前に自分で毒を飲んで死んでしまう、というのが一連のストーリーです。

どうでしょう?背景を知ると、ただのギリシャのひげもじゃのおじいちゃんの昔話から、もっとリアルで現代にも通ずるところのある話として感じられるのではないでしょうか?

ちょっと脱線ですが・・・
(『無知の知』ということば、「私は自分が無知であることを知っている(だから私はそのことを自覚していない人より賢いんだ、偉いんだ)」というような誤解もされているらしかったり、そもそも「知っている」と言い切ることはソクラテスの態度を正しく説明していない、など言われているのでこの言葉を聞いたり使ったりするときは気を付けましょう。正しくは『無知の自覚』や『不知の自覚』、つまり「私は自分が無知/不知であると思っている(のでその知らないことを一緒に探求しようよ)」ということなので頭の片隅にでも置いておいてもらえたらと。)

『哲学を知る』ことの意味

かくして出来事の背景を知ることは大事なことだと思うのですが、『哲学を知る』ということにはどんな意味があるのかということについて少し考えてみることにします。

普段物事を考えるよりは行動する、というタイプの人や、あまり物事を深くは考えないという人(深く、というのがどれくらいを指すかはさておいて世の多くの人でしょうか)にとっては、哲学者たちの言葉は、天啓のごとく、それまでの自身の価値観を変えてしまうほどに新鮮な驚きを与えてくれるかもしれません。それゆえに哲学は”宗教”みたいでなんだかうさん臭い、怪しい、怖い、なんて印象を持つ人もいるのでしょうけれど。

(あまり十把一絡げに「このタイプの人」とまとめるのもなんですが、このタイプの人が哲学者の言葉などを聞いて、「俺の求めていた思想はこれだ!これしかない!」という風になるのは時として非常に危険なことであり、そうならないために教育、学習、教養の類が必要だと思うのですが、これについてはまた別の機会に。)

ともあれこうした人にとっては哲学を知ることは好むと好まざると意味を感じられる事でしょう。

では私は世の中のあらゆることについて一通り思いを巡らせて、大抵のことは「まぁそんなもんか」くらいにしか思わないような人の場合はどうでしょうか。(私ではないです。私では…)

哲学の解説なんかを読んでも、確かに歴史上の出来事や人物の生きた時代背景を知り、知識欲は満たされたとしても、特別驚きはないことでしょう。

しかし、そんな中でも「有用だな」ということはあるものです。

名前があるということ

そう、歴史上の偉人といわれる人の考え方や思想には、構造主義、とか功利主義、だとか大抵小難しい名前がついているのです。後は先の『不知の自覚』のように名言として残っているものも多いです。

これらの何がありがたいのかといえば、抽象的で小難しい理屈や考え方に名前がついていることです。
そうです、名前があれば、現代を生きる私たちはその名前を用いて「Google検索」というものを使うことが出来ます。

え??

急に俗っぽくなって拍子抜けしましたか?(そして主語が大きな”人”から「私・私たち」になっていることにもお気づきでしょうか。名前を付ける、とはどういう行為で、とか議論をはじめるよりも、今回は少し実利的というか、私たちが身近に実感しやすい事に収束させようと思います。)

これはなんの説明でしょう?

さて、下に辞書からの引用をしてみましたが、何の説明だかわかるでしょうか?

1.すべての事象の根底に虚無を見いだし、何物も真に存在せず、また認識もできないとする立場。
2.既存の価値体系や権威をすべて否定する思想や態度。ツルゲーネフ・ニーチェ・カミュなどに代表される。
(デジタル大辞泉より)

これは「ニヒリズム(虚無主義)」の意味の説明文です。
全ては無価値で虚しいものだ、というようなことが書いてあるわけですが、「嗚呼、この世のものはどうせ無価値なのだ、どうでもいいや…」みたいなことを思っている人が読んだとしたら「なるほど、自分の考えていたこの考えはニヒリズムというのか!」という風になるかもしれません。

逆に、このように思っている人が、自分の思っていることを上手く言語化して、文明の利器たるGoogle検索によって自分の悩みを解消する、あるいは手掛かりを得ることは結構難しいものだとおもいます。試しに無意味、無価値、などと検索してみてもニヒリズムにはなかなかたどり着けませんでした。

話を戻しましょう。歴史に名を遺すような人たちが考えていたことに名前がついている、そのことによって私たちは彼らの置かれた状況、何をどう考えたか、その結果どうなったか、という叡智を味方につけることが出来るのです。

学んだり理解しようとする上では小難しいのは玉に瑕ですが、これは何とも素晴らしいことではないでしょうか?

インデックスをつけていくには?

頭の中の様々な思考に名前を与えていくことは、目次・インデックスをつけていき、情報として使えるようにしていくことであるといえるでしょう。これにより小難しい思考でも、名前を介して調べることが出来ますし、意味についてある程度の理解があれば自分の議論にそれを用いることもできるでしょう。

しかし一つ問題があります。それはインデックスをつけていくことの難しさです。

ただでさえ小難しい思考と、それに対応する小難しい用語。それらを頭の中に整理していくには、それぞれの思想の関係や文脈を知らなくては、辞書のごとくただの言葉の羅列になってしまうからです。

結局のところ思想を有機的なものにするためには、世の中で起きていることを『ちゃんと知』るには、その歴史の大局を知るよりほかないのでしょう。

もっとも、多くの人にとってそこまでは必要ないのかもしれませんし、知っていれば生きていくうえで少しだけ豊かな思考を持つことが出来る、くらいのことなのかもしれませんが。

まとめ

『ちゃんと知りたい』、という話から哲学のこと、そして小難しい思想に名前がついていることのありがたみと、それらを体系立てていくこと難しさについて触れてみました。

私自身は最近、この世の中の細分化して袋小路と化した知識の網を、どうにかほぐして、高校生くらいが使えるくらいに出来たらと四苦八苦しているのですが、当然のごとくとても難しいものです。

それぞれに色々な立場の専門家の見解があり、一次情報である原著はさらに難解であったり。そして専門家は時に隣の分野のことについてはまるで素人であったりすることも少なくありません。

えてして「ファッション」にもなってしまいやすい”教養”ですが、日々世界中で様々な思想が渦を巻き、様々な出来事がものすごい速度で起きてはそれがすぐに地球の裏側にまで伝わるような現代、流行りすたりではない、本質的な知識の再構築というのが非常に必要であると、私は思います。

さいごに

何か気になったことや頭に残ったこと、これはこうじゃないか?など思ったことがあれば何でも教えてください。

コメントしていただいてもいいですし、SNSなんかでメッセージをいただいても構いません。

私自身は今、半年ほどの期間で、「修了すれば世の中で起きていること本質について、歴史や哲学、経済、政治などの観点から論じるための基礎が身につく」ような学びのプログラムを作ろうとしています。

皆さんが良く知るところでいえば、池上彰さんみたいに分かりやすい言葉で、噛み砕いて社会の様々な出来事を話すことが出来るようになるための学びの場を作れたらと思っています。

一緒に学びたいという方や、こんな先生を呼んでくれたら、といった要望もございましたら教えてください!

最後までお付き合いいただきありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?