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足を運ぶこと、見つめ続けること。

旅を終え、真っ先に思い浮かんだのはこの先もフィールドワークを続けていきたいということだった。

その土地へ足を運び、その土地に息づく呼吸の仕方を日々の生活を通して全身で感じる。

その土地の人にとってはなんでもない、ただの日常のこと。

その営みの中に身を置くことは、知らない感覚を知るのと同時に自分の中の奥深くに眠る何かに目を向けることのような気がする。

普段の生活で見落としてしまう何か。
無意識に蓋をしてしまっている自分の中の何か。
生きるということのその生々しさ。

そういったものが目の前にありありと立ち上がって来るのが、私にとってはフィールドワークなのだと思う。

旅を終え、地元に帰って来てから都会に情報が溢れ過ぎていることに驚いた。

この一年半ほどで拡張して来た自分の感覚を閉じなければしんどくなってしまうほど、誰に向けられたのかわからない大量の情報や人の感情がどんどん入って来てしまう。

そりゃ都会に居れば感覚が鈍っていくのも当たり前かと思うのと同時に今までの自分がどれだけ自分に対して鈍感だったのかと思い知らされた。

イヤホンをして、スマホをいじって、そうやって外でもプライベートを持ち運んで、みんな同じ場所にいるのに別の空間にいる。

今この瞬間を生きているひとはどれぐらいいるのだろうか。

私たちは生きているのに生きるというその生々しい感覚を忘れてしまっているような気がする。

朝起きてご飯を食べ、学校や会社へ行き、家に帰りご飯を食べて寝る。

ただ毎日をシステマチックに生きることは果たして生きていることなのだろうか。

大切な誰かが亡くなった時にしか、命や生きることについて向き合うことが出来ないなんて。

なぜかもやもやして泣きたいような気がするのに映画を見なきゃ涙が出ないなんて。

何かを介してでしか内なる自分に気付けず、感情を外に出せないことにはなんとも言えない虚しさがある。

悲しいのはそれが積み重なって自分の感情が分からなくなってしまうことだ。

ただの透明な器になったように感じる。

自分が何が好きで、嫌いで、今泣きたいのか、怒りたいのか、幸せなのか分からない。

分かったとしてもその感情が表に出せなくなってしまう。

それはなんだか死にながら生きることのように思えて。それが一番辛いんじゃないのだろうかと思う。

次々と新しいものが生まれる一方でどんどん忘れ去られていくものたち。ネームバリューがあるものが価値のあるものとして疑わない風潮。強い言葉、大きな声が正解だと押し付けられ、マウントを取り合ってばかりの会話。

そんな世間で負けないように、自分を守るために、どんどんどんどん色んなことを習得しなきゃと外に武器を求め、武装していく。

みんな同じひとなのに、社会を作っているのは自分たちなのに、安心するために本当にあるかも分からない競争を激化させて、勝ち続けないといけないプレッシャーに押し潰されそうになって、お互いに傷つけ合って、ぼろぼろになって。

根底にあるのは不安なんだと思う。
みんな不安だから自分はここにいるよと叫びたいんだと思う。

それでも本当はひとはあたたかいと、あたたかさで繋がれると信じたい。

他人のままで、分かり合えなさを抱いたままで繋がることを諦めたくない。

自分はぐちゃぐちゃ難しく考えてしまうのが癖だけれど、それでもやっぱり世界はもっとシンプルなんだと旅に出るたび気付かされる。

自分はただ、自分が美しいと思うものを美しいと言いたいし、本当に自分にとって大切なものを大切に出来る人でいたい。

美しさの裏付けがあるものよりも、ふとした瞬間にあ、これ綺麗だなと思えるその感覚が愛おしいと思う。

その愛おしさに目を向けることが出来る自分でいたいし、それを大切に出来る自分でいたい。

色々と難しく考えてしまう頭でっかちな自分だからこそ、足を運び、言葉に出来ないあの感覚を体で感じなければならない。

私はただ、輪郭ではなく、その奥深くを見つめ続けたいだけなのだ。

ただ深く深くに潜っていきたい。

単に美しいという言葉で形容出来ない命の生々しさをきちんと見つめていきたい。

私はまだまだ知らなさすぎる。
だから私はこれからも足を運び続けたい。




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眠れない夜に

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