食料問題を解決するために、私は自律分散型のフードシステムをつくる
生産性の向上を目指してきた農学という学問
世界の食料問題をどうにかしたいと思って農学部に入学した私は、授業を受ける中で漠然とした違和感を覚えていました。
遺伝子工学の分野では、栄養価を高めたり、収量を高めたりと様々な技術を使って作物の改良に取り組んでいて、農業経済の分野では、どうやったら農家が経営を効率化できるのかを考えています。
農学の使命は「増加する人間への持続的食料供給」であるとされ、そのために生産性の向上(農業の集約化・Agricultural Intensification)が目指されてきました。
でも、生産性の向上は果たして必ず目指さなければいけない至上命題なのでしょうか?
飢餓問題は、食料生産が足りないから起きるのではない
Lack of food does not cause hunger, poverty does.
(飢餓は食料が足りていないからおきるのではない、貧困が飢餓の原因である)- Mark Bittman
このことは、農学部に入ったばかりの私にとってはショッキングな気づきでした。
食料生産の生産性向上・効率化が、飢餓をなくすことにつながらないのだとしたら、今学んでいる農学のあり方は本当に正しいのかと、疑問を持ち始めました。
さらに飢餓や栄養失調で苦しんでいるのは、ほとんどが途上国農村に暮らす農民だということにも驚きました。
食べ物を生産しているはずの農民が、十分な食料を得られずに苦しんでいる。逆説的に聞こえますが、そこには農民が自給的農業ではなくマーケットに出荷するための農業を強いられているという構造がありました。
生産性の飽くなき追求は、食の終焉をもたらす
市場原理が悪いと言っているのではない。また、生産性の向上、つまり、これまで経済成長の目安とされてきた、より少ない資源からより多くのものを生み出す能力が、世界を上や重労働から解放する上で必要なかったと言っているわけでもない。ただ、食品の場合、そうしたシステムと製品がうまくなじまないのではないかと言いたいのだ。より具体的に言えば、私たちの経済システムが評価できる製品の属性ーたとえば、大量生産性や価格の安さ、均一性、徹底した加工管理といったものーが、その食品を食べる人にとっても、あるいはそれを消費する文化や生産する環境のいずれにとっても、必ずしも最良のものとは言えないように思えるのだ。…(中略)今日の最大の問題はそのズレ、すなわち、「食品の経済学的な価値」と「生物学的な価値」の間のズレにあるのではないかと言いたいのである。
(『食の終焉─グローバル経済がもたらしたもうひとつの危機─』
ポール・ロバーツ著 神保哲生訳・解説 プロローグより抜粋)
その食品を食べる人にとっても、あるいはそれを消費する文化や生産する環境のいずれにとっても、必ずしも最良のものとは言えない
これをさらに具体的に説明すると、工業化された食による健康被害や地域固有の食文化の喪失や生産現場での環境破壊といったことを指しているのでしょう。
※食料生産と環境問題の関わりについては、ぜひ動画(Big Question: Feast or famine?(ごちそうか飢餓か?))を見てみてください。
今日の最大の問題はそのズレ、すなわち、「食品の経済学的な価値」と「生物学的な価値」の間のズレにあるのではないか
食べるという行為は、人間が自然との関わりの中に生きている証。その生物学的な営みに見出される価値に経済指標では測りきれないものがあるということを主張する人の数も、徐々に増えているように思います。
この本がアメリカで出版されたのが、2008年。
それから10年経った今、ようやくこの本にある内容が日本でも広く共有できるようになってきているのではないでしょうか。
それでもなぜ、フードシステムは変わらないのか
Jan Douwe van der Ploegは著書『The New Peasantries: Struggles for Autonomy and Sustainability in an Era of Empire and Globalization(新しい小農民たち:帝国主義とグローバル化時代における、自治と持続可能性をめぐる闘争)』の中で、現在のグローバル大企業が支配する集権化(centralized)が進んだフードシステムの状態を「Empire」と表現しました。
この言葉は、力を持つものが支配を広げ、内部の画一化を行うことで秩序を保っていく…そんな状態をよく表しているように思えます。
私が思い出すのは、タイやベトナムの農村で見た一面のとうもろこし畑。
森を切り開いた禿山に、どこまでもとうもろこしが植わっているその風景に、どうしようもないほどの無力感を覚えたのを昨日のことのように感じます。
穀物メジャーによって、その種も、農薬も供給され、一つ残らず買い取られる。農民には、価格どころか、何をどれくらい育てるかの決定権すら与えられません。
(写真はミンダナオ島のバナナプランテーション)
北米でのモンサントをめぐる訴訟は近年よく取り上げられますが、北米の農民は比較的声を上げやすく、また世間的にも日の目を浴びやすい位置にいるように思います。
声なき声を上げている農民は、世界にどれほどいるのでしょうか。
また、Empireに支配されているのは生産者だけではありません。広告に踊らされ、企業によって切り取られた情報のみでしか商品を購入できない状態にある消費者も、自分の意思で食行動を決定することができていない状態にあると言えます。
Food Sovereignty(食料主権)を求める小農運動
上のような問題を踏まえて生まれてきたのが「Food Sovereignty(食料主権)」というコンセプトです。
食料主権は、すべての国と民衆が自分たち自身の食料・農業政策を決定する権利である。それはすべての人が安全で栄養豊かな食料を得る権利であり、こういう食料を小農・家族経営農民、漁民が持続可能なやり方で生産する権利をいう。
(食料主権のグランドデザイン―自由貿易に抗する日本と世界の新たな潮流, p.142)
このコンセプトを1996年に提唱したLa Via Campesina(ビア・カンペ
ジーナ)の小農運動は全世界に広まっており、また2018年11月に国連で「小農宣言」が採択されたように、世界では「小農(Peasant)」の役割を見直す動きが加速しています。
前述のJan Douwe van der Ploegは同著の中で、この現象を「Repeasantation(再小農化)」と表現しています。
具体的には、束縛からの解放・貧困脱却のために小農たちが自立・自治を目指す動き、例えばマーケットへの依存度を低めたり、資源を自分たちの中で再生産したり、コミュニティベースでの意思決定を強めたり、労働力や資源などの価値をコミュニティ内で共有したりといったことなどを指しています。
もちろん複雑な要因があるため一概には言えませんが、このことは途上国農民の飢餓問題の解決にも繋がる動きだと思います。
食料主権が保証される自律分散型のフードシステム
中央集権型のシステムへの疑問の声、そして自律分散型のあり方を模索する動きは、経済や政治など色々な分野で高まってきているように思います。
私はフードシステムこそ、自律分散型を目指していくべきだと思っています。
Empire型のフードシステムに代替する自律分散型のフードシステム(Decentralized Food System)では、情報がより透明化し、関係者間での直接的なコミュニケーションが可能になります。
そこで大切なのは、一次生産者、流通に関わる者、消費者など関係者それぞれが、Food Sovereignty=主権を持って行動できる状態が保証されていること。
例えば日本のコメ農家さんは、JAに出荷すれば、生産地域と品種、等級といった情報しか価格は決まらず、お客さんも「〇〇県産のササニシキ」といった情報でしか購入を判断することができません。
それが私が働くポケットマルシェだったら。
農家さんは自分がなぜその作物を育てているのか、どれほどの苦労をして生産しているのか、などを示し、自分の価値観や意思に応じて商品の内容から表現方法、価格まで自由に設定することができます。
消費者は、誰がどんな意思を持ってその作物を作ったのか、さらにはそのお金は農家さんのどんな将来に繋がるのかまで判断して自分が応援したい・共感する生産者から商品を購入することができます。
このような販売・購入のあり方を実現する取り組みはこれまでにも存在していました。
しかしその継続や拡大には様々な障壁が存在しており、既存のフードシステムを代替するほどの大きな流れを作ることはできませんでした。
(参考:日本でCSA(Community Supported Agriculture)が拡大していない理由については、私の卒論の中でも少し触れています。)
しかし、脱中央集権型のシステムを志向する動きが各方面で起き、IT関連技術の発達によりそのシステムを支える基盤もできてきて、食がこのままでは終焉に向かうという意識が共有されてきた今だからこそ、私は自律分散型のフードシステムが可能なのではと思っています。
この文化を人々の日常に、この経済のあり方を社会のシステムに組み込むことができるのが、ポケマルのような存在ではないかと信じています。
フードシステムに「固有性」を取り戻す
また、自律分散型のフードシステムを追求することは同時に、空間性や時間性を食べ物に取り戻す動きでもあると思っています。
食べ物は、その土地の自然環境や地域文化といった複雑な要素が有機的に絡み合って生み出されています。
一方、最近日本でもてはやされているオランダの施設農業では、ガラス温室の中で温室度から風量や二酸化炭素濃度、溶液中の肥料分などあらゆる要素がコンピュータ制御で管理され、「どこでもいつでも誰がやっても」生産できる体制が構築されています。そのため同じ品質の食べ物(例えばトマトやパプリカ)が安定的に生産でき、国外へ大量に輸出できるため農業が国の経済基盤ともなっています。
あらゆる文脈から食料生産を切り取って行った結果、空間性と時間性といった「uniqueness(固有性)」を喪失させてきたのが、これまでの中央集権型のフードシステムだとしたら。
そうした複雑で非生産性的なものを非効率だと削ぎ落としてきたフードシステムに、もう一度その価値を認めて商品に正当に付与する仕組みを再構築することができるのが、これからのではフードシステムではないでしょうか。
自律分散型のフードシステムへの希望
このフードシステムを世界に持続可能な形で提示することができれば。これは、世界の生産者が、消費者が、食料主権を取り戻しその文化や経済圏を作っていく波を加速させるきっかけとなりうると考えています。
そしてそのことがゆくゆくは、世界の飢餓問題や、農業による環境破壊、都市化に伴う経済格差、食料廃棄の問題などフードシステム各所で起きている様々な課題を根本から解決しうると信じています。
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追記:ここまで読んでいただきありがとうございました。
私のより個人的な食や農に対する想いは、以下のnoteをご覧いただけると幸いです。
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