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人生の主人公

 私が考えている人生観の中で根幹に属しているものが「私の人生の中で私は主人公では無い」というものである。では私は何なのかというと「“主人公”が他にいて、かつその主人公の作品のスピンオフ的主人公である」という考え方である。人間誰しも生きていく上での責任は、リスクヘッジや本能的な感覚により実際のものよりも大きく考えてしまう様にできている筈で、私はそれをもっと楽に考えられる方法は無いか探し求めていた。昔から人生自体を何らかの造られた物語の様に感じる変な性癖を持った私が納得できる考え方として、上記の“本筋からの部外者”を演じる事は何にも代えられないモットーの様なもので、ある種の他力本願的な感覚を良く現していた。
ただ造られたシナリオというのは、大きく常識を逸している人間の人生の歩み方の総意であると感じている事から、私が参加している“本筋”において、それは他の人があまり経験し得ない特異な才能ひいては特異な人生の物語であるべきという私の個人的な感覚が主人公を決めていた。そして更に、この物語は“本筋”であるが故に正(善)の物語である事が大衆的には望ましく、成功の道筋をしっかりと書き殴ってくれる方が私にとってはありがたいと感じている。
裏を返せば……どちらかというと今まではこの説明の前置きなのだが、私の物語は裏(悪)であることが義務付けられているので、語弊を惜しまず書くと私は何を(世間的に悪い事でも)してもそれが物語として成立するという訳である。正義は他にいるから、私は好きに生きさせて欲しいと常々思うのである。
 私は今まで生きてきて、その光の主人公を2人ほど見つけていた。本人達にはしっかりとこの考えを言った事はない。知らぬまま生きていく事が私にとってはありがたいのである。今回はその内の一人について考える事を書こうと思う。

 その人とは実は実際に会って話した事はないのだが、お互いを知って話をする様になってからはもう数年以上経つ。本当に綺麗な美貌の持ち主で、話が上手くて、高校に進学していないのにも関わらず友達が多い人だった。私の周りには高校進学というものが当たり前の風潮であるのも相まって偏見があった筈の感覚が、話していく内にその人のお陰でどかどかと崩れ去っているのが分かった。家庭環境に難があり、かつ中学で虐められていた事も後から話を聞かなければ分からないぐらいに快活で、かつこれからの生き方に関してもある程度しっかりした考えを持っている。私はこの人が物語の主人公だったら面白くなるだろうと考えてしまった。非常に上から目線であり、他力本願の余地を見せつける形で本当に申し訳ない。ただ私にとってこの上ない賛辞である事は確かな事をここに明記しておく。まさに正の物語を形作る事ができる人だと確信し、その行く末を、私が少し援助しながらでもこれからも見せて欲しいと思っている。

 あまり人物の特定をされたくない為詳細は伏せており、上記の“主人公”である理由に関しては乏しくなってしまったが、私のその人に対して思う事は書けていると思う。ただただ生きていて欲しい。どんな結末であれ、遠くからでも見届けたいと私は思うのである。

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