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ともに生きること、在ること

20年後の、老年期の始まりの自分は、今よりも思いやりを持った優しい老人になれているだろうか。

そうあるためには何が必要なんだろうな。

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どう生きる? どう在る?

私は簡単な言葉しか知らない。手数が少ないからこそ、放つ言葉の温度にはこだわっている方だと思う。

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人それぞれ、心の中に『焚き火』があるとする。迷ったり疲れたり動きたくないほど元気のない時は、今にも消えそうな頼りない小さな炎になるだろう。でもなぁ命ある限り、消えて無くなることはないと思うんだな。本人は「ない」ように感じていても。

だからその火にとっての『まさかの冷や水』には、なりたくない。自分の手から離れる時、炎を絶やさないための薪なのか、そうでないのか。時間がかかっても見極める習慣は忘れたくない。

薪すら持ち合わせてないことも多々あると思う。気の利かない人、と思われるのだろうな。でも、そんなことどうでも良い。それよりも目の前の誰かの、小さな炎を大切にしたい。

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noteを登録してから40本ほどの投稿をしているらしい。ROM専として登録したのに、つい出来心(それはとても嬉しい出来心だった。機会があれば書いておきたい)でこんなに書いちゃった、と驚きを隠せない。

書いている殆どが、ふつうに命あることの有難さ云々を、幼稚なボキャブラリーで説いた所謂ゆるふわな内容ばかりだ。自然とそうなっちゃった。一面的である。

キラキラするような眩さなんて無いに等しい。でもそれで良い。

おこがましい願いだけど、静かな海の端っこに、ひっそり佇む灯台で在れたら良い。人目気にせず考える時間が私には必要だし、暗く広い海で道筋分からず迷った誰かの目に留まり、一瞬安心してくれたらそれで良い。

私も迷った時は、その時々で出会う灯台を目印に、ゆっくり帰路に着くのだろう。あくまでも「誰か」のではなく「自分」の家に。

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一見華々しく、大きな焚き火に「いいね」って大勢で集まるとき、心の芯はどんな温度?意外に冷めざめしてるけど、ことインターネットの世界では気付かないこともあるのだろうな。

冷えは万病の元。自戒とともに。