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大人になっても、小さな幸せを見つけられるように

優しいグラデーションの空と、控えめな波音。久しぶりの景色が嬉しくて、めいっぱい空気を吸い込む。穏やかな景色をしばらく眺めていると、後ろの方から私の名前を呼ぶ声がして振り返った。

「よく来たね、おかえり」

こちらに向かって大きく手を振るユキちゃんとケンちゃん。私よりひと回りほど歳上の夫婦が見せるあどけない笑顔に、つられて私の頬も緩む。

久しぶりの鎌倉の空気に、ぎゅっと縮こまっていた心がゆっくりとほどけていく。


・・・


初めて鎌倉へ訪れたのは大学3年の夏だった。ちょっとした好奇心と憧れで、特に深い理由などなく決行した一人旅。大阪からはるばるやってきて予約していたゲストハウスに到着すると、リビングにはちらほらと人が集まっていた。

「今夜ライブがあるので、よかったら。」

特に予定もなかった私は、そのライブに参加することにした。いや、正直に言うと誘ってもらった手前なんとなく断るのもなぁ、なんて気持ちが8割だったのだけれど。できるだけ目立たない場所で、隅っこでこっそり……のつもりだったけど、そこに居合わせた人の顔も名前もすぐに覚えてしまえるくらいの小さなライブで、気がつけば私もその空間に溶け込んでいた。


ライブも終わり、残っていた人たちで楽しかったねなんて余韻に浸っていた時。

「そういえば今日って、満月だよね」

ふと誰かが思い出したように言った言葉に、みんなが目を合わせた。

「海まで見にいこうよ!」

大人たちが何も持たずに外へ飛び出した。海までは走って1分。私も戸惑いながら、その後ろをついていった。



「うわ、誰もいないよー!」

「わ、冷たくて気持ちいいよ!」
「ほんと?私も靴脱いじゃおっかな」

大人たちが夜の海ではしゃいでいる姿が新鮮だった。その光景に、嬉しいような、安心したような気持ちになるのはなんでだろう。

足首を撫でる波に心地よさを感じながら、ぼんやりそんなことを考えている間に私の隣にやってきたのはユキちゃんだった。

「ももちゃん、こんな日に来たなんてツイてるね!」
『うん。それにみんな楽しそうにしてて、いいなぁって』
「……大人って大変なことも多いと思うけど、そのぶん楽しいこともあるから。大丈夫よ!」

楽しいこともあるっていうか……みんなそれぞれ見つけていってるんだろうねぇ、こうやって。と、目の前でお腹を抱えて笑っている大人たちに目を細めながらユキちゃんは続けた。

”大人も、思ってるより楽しくできるよ”

海ではしゃぐみんなの姿に、ユキちゃんの言葉に、そんなことを教えてもらって嬉しくなった。




それから私は、ふらっと鎌倉へ遊びに行くようになった。

何度も足を運ぶようになって、わかったことがある。この街の人はみんな、それぞれの楽しみとか、ささやかな幸せを見つけることが上手だ。

相変わらず各々が好きなことをする小さなライブ。
波がある日は早めに閉店するサーファーのお店。
晴れた日の海に行けば、お昼寝をしたり本を読んだり、ただ海を眺めたり、好きな時間をそれぞれが過ごしている。

ユキちゃんとケンちゃんはよく家に泊めてくれた。「修学旅行の夜みたいな気分になるね」と夜中までおしゃべりしたり、「連れて行きたい場所がある」といつも私の知らない場所へ連れていってくれたりした。




大人になっても変わらず鎌倉に行けたらいいな。

そう思っていたけど、やっぱりなかなか思い通りにはいかなかった。当たり前っちゃ当たり前だけど、社会人になると、大学生の頃と比べて鎌倉へ行く頻度は必然的に減っていった。

真っ直ぐ立ち並ぶビルと同じように姿勢を正す。時間通りに迎えに来る電車に乗り遅れないように、できるだけ早歩きで歩く。

そんな毎日を過ごしているうちに「次はいつ鎌倉に遊びに行こうかな」なんて考える時間も、鎌倉で教えてもらったはずの「ささやかな幸せの見つけ方」も、だんだん忘れていくようになった。

それより今は、ひと息つく時間さえももったいないような気がして。置いていかれないように、思い描いたかっこいい大人にちゃんとなれるように、ほんの一瞬でも立ち止まるのはだめな気がした。逆に言えば、このままがむしゃらに走り続けた先には、仕事もプライベートも、思い描いた通りの未来が待っているような気がしていた。



でも、人生はなかなか思い通りにいかないらしい。社会人2年目の夏、突然仕事をやめなければならなくなった。

自分なりにだけどがむしゃらに、一直線に走ってきたぶん、もう先が見えなくて何も考えられなかった。部屋で1日が終わるのを待つ毎日に、いつまでこんな日々を過ごすんだろうと天井を見上げることしかできない。

惰性でInstagramを開くとたまたま最初に出てきたのはユキちゃんのストーリーだった。鎌倉、そういやしばらく行ってないな、なんて思い出してなんとなくリアクションを押してみる。

「元気?」
タイミングが良かったのか、すぐにユキちゃんからDMがきた。
「仕事、辞めたんよね」
それだけ送ると、しばらくしてビデオ電話がかかってきた。


普段、ユキちゃんたちとは電話だってほとんどしないからちょっと戸惑ったけど。申し訳ないと思いながらも自分のカメラはオフのままで画面を覗いた。

「今日の海、晴れてて綺麗よ!ももちゃんにも見せたくてね〜」

特に私の近況に触れるでもなく、私が鎌倉に行ったらいつも訪れている海を映してくれていた。

「今日は暑いからね〜。ビデオ電話で見るのがちょうどいいよ!」

少し遠くで、ケンちゃんの明るい声も聞こえる。
その優しさが嬉しくて、鎌倉の空気が恋しくて、ビデオオフなのを良いことにバレないように泣いた。









それから数日後、半ば衝動的に新幹線に飛び乗って、鎌倉へ向かった。久しく感じていなかったあの街の優しい空気に触れたくて仕方なかった。

持て余した時間を良いことに、ゲストハウスを転々としながら気が済むまで鎌倉に滞在することにした。これまで行けていなかった時間を取り戻すかのように。初めて鎌倉に行った時に泊まったあのゲストハウスも久しぶりに予約した。

少しの間、走り続けることに必死で忘れかけていた感覚を味わってみる。
高いビルがないこの街にいると、背伸びをしなくてもちゃんと空が見える。走って追いかけなくても海は逃げていかないから、ゆっくり寄り道しながら海岸へ向かっても大丈夫だ。



「明日、何してる?」

ちょうど明日は何をしようかと考えていた時、ユキちゃんとケンちゃんから連絡がきた。天気がよければ海に行く予定らしく、そのお誘いだった。タイミングが合えば海でおしゃべりしようね、まぁ行くか分からないけどね、と。そうだ、そんなゆるさも鎌倉の好きなところのひとつなんだった。



次の日の夕方、海に行くとユキちゃんとケンちゃんがいた。

「よく来たね、おかえり」

やっぱり、詳しいことは聞かれなかった。ただ、

「今はゆっくりしなってことだよ、きっと。毎日頑張ってたんだからね。」

何がとは言わず、初めて会った時と変わらない笑顔でそう言ってくれた。



その日は雲が薄くてよく晴れた日で、時間が経つにつれて夕日を見ようと出てきた人たちが増えてきた。

「あ、◯◯ちゃん、久しぶりー!」

近くに住むカメラマンだという女の子や、私もよく行くお店のオーナーさんなど。約束したわけでもないのに、気づいたら見知った顔もパラパラと集まり出していた。中には初対面の人もいるけど、あまりそこは関係なくて。

なんでもない話をしながら、夕日で焼けていく空を眺めた。なんだか、初めて鎌倉に行ったあの夜と少し重なるな、なんて。心が、じんわりとほぐれていく。

好きな時間に海へ来て、集まって、それぞれの時間を過ごして。気が済んだら、またねとそれぞれに来た道を帰っていく。

「今日の夕日はここ最近で一番綺麗だったよ!やっぱりももちゃんツイてるね!」

あぁ、やっぱりここにいる人たちは、上手な幸せの見つけ方を知っている。私もそんな私でいたくて、何度もここへ来るようになったんだったな。



初めて鎌倉に行った時にそっと教えてくれたみたいに、やっぱり大人になると大変なことがたくさんあった。うまくいかないこともザラにあるとわかった。これからもそんなことがあるのだと思う。

でも、これもまた教えてもらったみたいに、そのぶん楽しいこととか、小さな幸せを見つけていくことだっていくらでもできる。1人でできそうにないなら、一緒に誰かと探せばいいってこともわかった。

そのために、立ち止まって空を見上げたり海を眺めたりして、おしゃべりする時間があってもいいのだ。

あの夜があったから、あの夕日があったから、あの出会いがあったから、大事な記憶をお守りみたいにして、また次の日からそれぞれのペースでみんな歩き出せるのかな、なんて思ったりした。


だから、私も少しずつ。前を向いて、また歩き始める。

「いつでも帰っておいでね」

また何かあったら戻ってきたらいい。そしてここで話そう。何もなくても、来たらいいからね。

そう言って改札越しに大きく手を振る2人に私も手を振り返して、新大阪行きの新幹線に乗った。


この記事は「【ADDress】エッセイライティングnoteコンペ」にて執筆・受賞した作品です。

・企業名:ADDress様
月額4.4万円で全国47都道府県に展開する登録拠点に、どこでも定額で住むことができるサブスクリプション型の多拠点居住サービスを提供している

・テーマ:「いつもの場所がいくつもある、という生き方。」


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