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ファッションデザインの仕事②

ファッションデザインの仕事①では、人間像を中心に概念化を試みてきた。
次に、「なぜコレクションという形で表現しなければならないのか」という問いついて考えていこうと思う。


コレクション表現に固執するファッション

ファッションデザインの表現方法は様々あるが、コレクションという形式で発表するのが一般的である。
パリコレ、トウコレと日本では呼ばれるが、これは一定期間中にパリや東京などの都市部でファッションブランドが次期シーズンの新作発表をする場を「都市名+コレクション」の形で略したものをいう。
※パリコレやトウコレで示されるものはその期間や発表場所のことで、日本以外ではParis Fashion WeekやNew York Fashion Weekと呼ばれる。

新作発表の方法に対する呼び名は様々あるが、表現形態は一貫して「コレクション collection」と呼ばれている
ファッションショーによってモデルが顧客の前を生で歩くものも、撮影した写真を見せるものも、展示会でサンプルをラックに置いておくのも、いずれも「コレクション」である。
一着のみであったり一体のみで表現しようとするのではなく、少なくとも三体以上(3ルック)という形態をとる。

これほど「コレクション」に固執したメディアもないのではないか。
美術館の企画展でもコレクションという言葉が使われるが、この場合は美術館に所蔵されている作品をあるテーマに沿って展示したり、著名な人が蒐集した作品を展示するものだ。他の美術展では必ずしもコレクションとは呼ばれない。ファッションはなぜコレクションでなければならないのか?

コレクション=蒐集

一般的な意味でのコレクションとは複数のものが集まった状態、ないしは集めることを指し、蒐集とも訳される。(ここには美術館のコレクション展も含まれる)
20世紀を代表する哲学者の一人であり表象文化論の先駆け的存在でもあるウォルター・ベンヤミンは、主に複製技術時代の芸術におけるアウラの概念が有名だが、自身が蒐集家でもあった彼は「蒐集」についての論考も書いており、そこで彼は蒐集によって「独自の秩序」が現れるということを主張する。

蒐集によって現れる独自の秩序

蒐集、コレクションと聞いて、蔵書、切手、骨董品、フィギュアなどが一般的に想起されるだろう。棚に飾られていたり、机の奥に仕舞われていたり、瓶に詰められていたりするのではないか。
こうしたイメージは、コレクションが日常的な実用性のもとに置かれたものではないということを示している。
机の手前にしまわれ、よく使われることが前提の爪切りはただの日用品だが、数々の爪切りが棚に並べられた途端にコレクションになってくる。
複数の同じアイテムでなくとも、古びたフォーク、古びたナイフ、古びた壺、古びた木箱などが集まった時、「骨董品」という独自の秩序が蒐集によって現れてくる。
つまり蒐集とは、ある事物が複数ある状態というだけではなく、そこに実用にはない独自の秩序がある状態をいう。そこに集まったものに共通する空気感や世界観のようなものだ。
骨董品という秩序であれば言葉として流布しておりわかりやすいが、厳密には言語化することが難しい、人それぞれ、コレクションそれぞれの秩序がある。

「なんとなく」のファッション

ではファッション表現において「独自の秩序」はなぜ必要なのか。「独自の秩序」が必要ないのであればコレクションという表現形態に固執する必要もない。
問いに対する答えを端的に言えば、人間像としての複雑性を表現するためだと考えている。

まずファッションデザインが何をしているのか振り返ると、ファッションデザインの仕事①で定義したのは「新たな人間像の創造」であった。
何に価値を置き、どんな生活をしていて、どんな趣味で、どんな思想を持つのか、、、。文化的な環境の中で社会の変化とともに変容していく人間の有り様を捉えて、新たな人間を提案していく。

新たな人間像を創造する上で独自の秩序が必要であるのはなぜか。
そもそもコレクションによって見えてくる独自の秩序とは、さまざまなものの集まりの中で「なんとなくの芯」が感じられることだ。
「なんとなく」、つまりはっきりと「これが核である」と言葉で示すのではなく、多様な側面の多様な情報によって直感的に感じられなければならない

人間像における独自の秩序

具体的な人間の性質で考えた方がわかりやすいかもしれない。
ある人物の個性を言葉で表現しようとした時、「怒りっぽい」のような一般的な性格だけではないし、寝るのが好きだからといってパジャマ姿でいることがその人を表すのかというとそれだけでもない。ジェンダーも人間を数種類にしか分けてくれない。
しかし、何かわからないけどその人らしさが「なんとなく」漂っている。性格であり、家族関係であり、影響を受けた作品であり、それらによって形成されてきたリズムである。

例えば、昼間会社でスーツ姿で仕事している風景しか見えていない場合のBという人間像と、それに加えてサッカーの試合を毎週末見に行っている姿も見えている場合のBという人間像では、その人のイメージが全く異なるだろう。
多様な情報やコンテクストを示さないことには、独特な人間像は浮かび上がってこないのだ。

コレクションにおける人間像の意味

今度は実例を見ながらコレクション表現が持つ意味を感じてみる。
ビジュアルイメージを見ながらでないとなかなか感じられないようなテーマなので、コレクションを見た方が早い。

下の画像は、NOZOMI ISHIGUROというブランドが2012年に発表したコレクションの1ルックだ。夏のビーチが思い浮かんだり、開放的で自信もありそうだが高飛車すぎずどこか身近さも感じられるかもしれない。

NOZOMI ISHIGURO Tambourine 2013 S/S

しかしこれはあくまでもコレクションの1ルックであり、全体として見るとまた上のルックも印象が変わってくる。
花柄やボーダー、短パンや水着のような形など、いかにも夏らしい柄やスタイルがありつつも、通奏低音として響いてくるのは心に抱えた繊細でダークな一面ではないだろうか。そのような世界観の中で上のようなルックはどのような意味を持つようになってくるだろうか。背景が暗いことや、スカートのタイトさとパッチワークの重要性が浮かんでくる。
より言葉にしづらく、しかし「なんとなく」独特な空気が漂ってくる。

NOZOMI ISHIGURO Tambourine 2013 S/S


文化的な環境のもとで生きる人間

ここからは、「独自の秩序」という概念の背景についての考えに少しだけ踏み込んでみる。
人間像はなぜ複雑でなければならず、秩序ということと関係してくるのか。おそらく、文化というシステムがそうさせているのではないか。

文化とはある集団内で共有される規則や習慣のことだが、生物学的なヒトではなく文化の中で生きる人間は、言語を持ち、さまざまな社会制度があり、生活の仕方が個々の家庭、個々の人間にあり、反応や行動の仕方が人によって異なる。異なる人間同士が、協力したり、戦ったり、傍観したりする。
文化が人間に固有の複雑で多様なイメージや人間関係を作る。

衣服とはまさに(民族や国によってよって異なる一般的な意味での)「文化」の代表例でもあるが、こうした複雑な環境を作っている文化というものが、個々の人間像における独自の秩序を形成してもいる。どういうことか。

文化と人間像における独自の秩序

認知科学的に言えばバイアスや認知的枠組み、文化心理学的に言えば意味体系などにあたるし、社会学におけるハビトゥスも大きな枠組みではそうだ。これらの言葉は、さまざまに複雑なものの影響を受けている中でも一貫した何かがあるという想定ではあるが、ある個人Aについて、その人固有の枠組みや意味体系とは何か、つまりその人の個性とは何かと問われれば答えるのが難しいものでもある。
単純な環境に生きていれば同じような対応しかする必要がなくなるので、多数の個体が似通ったものになってくるが、生きる環境が複雑であればあるほど個体によって異なる反応や行動の仕方が生まれる可能性が高くなる。他の個体には見られなかったような動きがしやすい=個性というものが作られやすくなると考えられる。

つまり、文化という複雑性の高い環境が、非常に複雑な状況や一人の人間を語る複雑性を作りながらも、一貫した何か、その人にしかない何かを作りもする。これが人間像における独自の秩序ということだ。

法則や指標ではなく秩序

マダニのように、酢酸の匂いと30度ほど(正確な値は忘れてしまった)の温度を感知する能力を持ち、その指標を持って獲物を待ち続けるような生物の場合には「文化的な環境」のもとで生きているとは言えず、個体それぞれが「独自の」秩序を持っているわけでもない。
数値として捉えられる一対一の因果関係のような場合には、秩序というよりは、法則や指標と呼ぶ方が適切であると考えられ、あるマダニ個体の特徴的な”マダニ像”も見えづらい。
しかし、マルチスピーシーズの相の元では個体としてのマダニ像もあるのかもしれない。

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