好きなものへの態度の話
好きなものなんですか。
そう言われて、挙げるものって様々です。
私もそれなりに好きだなぁと思うものがあります。
いわゆるオタクと言われる側ですので、好きな漫画やアニメ、ゲームもありますし、好きなアーティストやアイドルもいます。
新作をちゃんと買うくらい好きな小説家もいたり、見る習慣はないにせよ映画や映像作品も特定ジャンルならかなり前向きに視聴したりします。
昨今、人の好きを否定しない風潮がうっすらとあるように感じることがあります。
推し・推し活なんて言葉もここ数年でよく聞かれるようになり、社会(というか経済活動)的に、そういう行いが広く浸透し許容されているのを肌で感じる人も多いのではないでしょうか。
それでも、あまり私は人に好きなものを言うことが得意でありません。
「人に言える好きなもの」が、無いように思うのです。
だから、初対面の方と会う機会や春先などのそういう時期は、とても頭を悩ませてしまいます。
私の中で、好きを好きと言うことの問題点は二つ。
一つは、好きであるもの・ことに付随する対外的なイメージ。
もう一つは、好きの熱量。
好きなものへの付随イメージ
一般的に、漫画やアニメが好きというのは、やはりちょっとオタク趣味であり、“そういう人”であるというレッテルが貼られてしまうことが多いです。
たしかに、それは……そうなんですが……。
私がまだ若かった頃(小中くらい?)は、まだオタクに対する目線というのはあまりいいものでないことが多かったです。
こういう趣味者がいわゆる市民権を得るようになったのは、スマホの普及および爆発的なインターネット人口の増加によるところが大きく、それまでは教室の隅で仲間内と肩を寄せ合っていることがもっぱらでした。
今思えばオタクであることが悪いのではなく、そういう態度や他の面での人間性を加味してやや遠ざけられていたのかなとも思うのですが、その記憶がこびりついて離れないでいます。
この漫画がどうとか、あのアニメがこうとか。
そういうのを言うことで、キモいなって思われたらどうしよう。
存在するかもわからない、シュレーディンガーの悪意を想像して言うことを躊躇ってしまいます。
好きの熱量
どちらかというと、こちらの方が問題なのかなと思っています。
自分の好きには好きと言えるだけの相応の熱量がないのではないかと思って、人に言うのが憚られてしまうのです。
前述のように、推し活という言葉・概念が台頭していることからも、世間的にそういう行いが一般化されてきている傍らで、好きであるにはお金・時間・労力を尽くすのが当たり前であるというような雰囲気が漂っているなと感じます。
なんとなく好き。
そういう姿勢が許されないというか、好きなら全てを追っていなきゃダメだというような正しさ・熱量を求められることが多い気がしてしまいます。
私はたしかにいろいろ好きなものがあります。
けれど、それら全てに対して追う気力やかけるお金があるかといったらそれは難しいですし、自分なりにしか好きではいられません。
そんな中で、これが好きとだと人に言った時、好きなものに対しての向き合い方としてそういった正しさや熱量を期待されると弱ってしまうのです。
これは趣味や特技なんかも同じことです。
「好きって公言できるほど好きなのか」「得意って言えるほど得意ではない」「趣味と言うくらいのものではないのでは」
そんなことばかりよぎってしまいます。
自分の素直な気持ちを大切にしたい
全体的に、私は自意識が過剰なんだと思います。
さして関係のないような人であれ、周囲からどう見られてしまうのかをひどく気にしてしまうところがあり、自分で呆れることも少なくないです。
そのせいで、自分のせいで、好きを好きと言えない。
これはなんだか好きなものへの冒涜にも思えますし、なによりそれを好きだと思った自分自身をひどく蔑ろにしてしまっています。
自己肯定感、とはまた少し違いますが、自分くらいは自分の好きやそういう気持ちを大切にしてあげてもいいんじゃないか。
ようやくそう思えるようになってきたことが、最近の成長です。
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