たとえ生きることが、つらいことの連続だとしても。
マツコが言っていた。
と。
仕事が上手くいかなくて疲れているのに、それに重ねるように人身事故で電車が止まったり。
信頼していた人に裏切られたり、新しく買ったヒールの靴ずれで、かかとがどうしようもなく痛かったり。食べようと思っていたスイーツを意気揚々と買いに行くと、売り切れていたり。
そんな些細な絶望が、私たちの日々を襲う。
ジョン・レノンは言った。
気づけばあの日の思い出からは10年が経っていて、部活や仕事で味わった挫折も、苦しかった失恋も、過去のものでしかなくなって、それでも私たちは今を生きている。
ソクラテスは言った。
人生はなぜこんなにも、思った通りにはいかなくて、苦しんだり悲しんだりしなくちゃいけないんだろう。誰もが、一度はそんな風に思ったことがあるのではないだろうか。
シェイクスピアは言った。
わたしたちは、毎日毎日、選択する。何を食べるか、誰と会うか、誰の話を聞くか、何をするか、しないか。
そんな些細な選択が、私たちをかたちづくる。
ビル・ゲイツは言った。
人生が不平等であることに、私たちは悲しくも10代後半あたりで気付く。それを知った上で、自分の持っているカードで戦うか、カードを増やす努力をしなければいけないことを知る。
最初からたくさんのカードを持つ、あるいは数はなくとも最強のカードを持つ人を羨ましいと思いつつ、他人と比較することの無意味さも知るのだ。
人生は、つらいことの連続であり、忙しくしていたらあっという間に歳を重ねていて、簡単ではない。その上で不平等で、そんな中でも自分自身での決断を強いられる。
なんて過酷なゲームなのだろう。
このことを、18歳、あるいは22歳の頃も、わたしは理解していなかったかもしれない。
世の中の人を見ていると、「人生がつらいことの連続だ」なんて思っていなさそうな人が、わんさかいる。
つらいことなんてなさそうな人や、つらいこともポジティブに変えて生きていける強さがありそうな人。
きっと、以前の私もそう見られていたし、今も他人にはそう見えるかもしれない。しかし実際はそうではない。つらいことがなさそうに見えるだけ。強く見えるだけ。誰しもが内に何かを秘めている。
本人にしかわからないそのつらさは、
いつも「生」に付き纏う。
誰しも、大小異なれどつらいことが、
生きていると次々と降り掛かってくる。
生きることが、降り掛かる雨を凌ぐ日々の繰り返しでも、わたしたちは投げ出してはいけないみたいだ。つらさが「生」に付き纏うのと同じように、ほんの少しの楽しさや幸せも「生」の中に存在する。
偉人たちも私と同じような絶望や悩みを感じていた。それでも彼らが生きたのは、生きることでしか味わえない何かがあるからだろう。
だからわたしも、雨の先にある虹に期待を込めて生きてみるのも良いかもしれない。
たとえ生きることが、
つらいことの連続だとしても。
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