可哀相
「可哀相」という言葉が嫌いだ。
人から言われるのももちろん、自分も人に対してむやみに使おうとはしないだろう。
今日はおだやかな文章ではないので、代わりにおだやかな写真を貼っておきます。
母が、「可哀相」という言葉をよく使う。
人に対しても、私に対しても、使う。
もともと母は、人から言われることをそこまで気にしないたちで、相手への言葉づかいも色んな意味で「正直」なところがある。
けれど、そんな親のもと育ったわたしのは、ほとんど真反対の性格で、言葉のひとつひとつを掬うことは好きだし、見方を変えると「あら探し」になってしまう時もある。
そんな私は、ある日母から言われる「可哀相」に耐えられず、「それ言うのやめて」と言ってしまった。
「わたしは可哀相じゃない、可哀相な人でもない。可哀相というのは自分がそうなりたくないから、使う言葉だろう」と。
振り返ると、結構わたしのほうも敏感になっていたのかもしれない。
後日、母から謝罪と弁明があった。
「可哀相」というのは、何とかしてあげたくて相手を思うあまり、言ってしまう言葉なのだと。だからあまりネガティブに捉えないでほしいと。
なるほどなあ。「可哀相」ひとつ取っても、考え方が違うと別の言語を話しているみたいじゃないか。
いったんはその説明に納得し、うなずいたものの、今でも遠慮なく「可哀相、可哀相」と言われ続けるのには、なかなかすぐに気持ちを切り替えられない。
同じ日本人なのに、コミュニケーションとはなんと難しいことか。
ちなみに、「可哀相」の言葉の成立ちとしては、「かわいい」から来ているそうだ。
うーん。語彙の起源を振り返ってみても、なにかほかの言葉に言い換えられないものか、と思ってしまう。
多様な考え方の時代ということは、分かる。でもやっぱり自分は「好きじゃない」。
正しい/正しくないの尺度とは別に、好き/嫌いの尺度で判断することも大事だから、この自分の気持ちは尊重してあげよう、と思ったのだった。
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