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何もできないのは嫌だから

2011年3月11日、私は留学先のアメリカの大学の談話室で、東日本大震災の発生を知った。互いに挨拶を交わす程度の仲だったイタリア人が、「Tokyoが大変だ!」とニュースを見るよう、私たちに促してくれた。繰り返し流れる津波の映像に言葉を失い、日本人3人はそれぞれの家族・友人にSkypeで連絡し返事が来るまで息が詰まりそうな気持ちで待った。当時日本人の信仰心の薄さについて他国の留学生から疑問を呈されて明確な答えが見つからずにいたが、そのときは自分の知りうる限りのすべてのものに対し、一人でも多くの被災者の無事を祈ったのを覚えている。

人の力でどうにもならない、災害・疫病。これらは人の心を大きく揺さぶる。この10年間で何度も、日本は災害・疫病に見舞われ、その度私も自分の無力感に絶望した。しかし、毎回違う立場でそれらに遭遇し、自分の中に気づきや社会の変えたい部分も少しだけ蓄積できてきたように思う。今日はそれをアウトプットすることで、何もできない自分から一歩踏み出そうとしている震災から10年後の今を残しておきたい。

・アメリカでのチャリティーと帰国後の復興ボランティア
・熊本地震と九州北部豪雨で知ったミスマッチ
・新型コロナの日々を見て
・何もできないのは嫌だから、踏み出したい一歩

アメリカでのチャリティーと帰国後の復興ボランティア

アメリカの小さな町、全校生徒が800人ほどの小さな学校に留学していたわたしたち日本人は、多くの学生、教員に顔を認識されており、震災直後はたくさん労りの声をかけてもらった。「Do you wanna do something? Let me know!」と言ってもらう機会もあり、震災から2週間後には、Raffle Ticketsを売るチャリティーを始めていた。これは複数の友人に授けてもらったアメリカで一般的なチャリティーの方法だそうで、協力者に提供してもらった商品のあたるRaffle Ticketsを1枚数ドルで販売するものだ。学校の周りのスーパー、バー、レストラン、雑貨屋さん等、たくさんのお店が無料または破格の値段で商品を提供してくれた。また、校内新聞で取り上げてもらったり、授業の最後に声をかけさせてもらったり、所属していた地域コーラス団体に告知したり、スーパーの前で即席ブースを出させてもらったりして、大学内のみならず町中の人にチケットを購入してもらった。集まった収益金はアメリカの赤十字社・日本赤十字社を通し被災地に寄付した。アメリカと日本で遠く離れていても、その時どうしようもない事で困っている人に何かをしたいという気持ちは共通で、また自分も何かできることを探して動いている方が心が軽くなるものだなと実感した。

留学期間を終え日本に帰国し、大学5回生になって授業もアルバイトも調整できるようになった2012年の6月、わたしは関西発のボランティアツアーで宮城県七ヶ浜を訪れた。車中泊2泊、現地1泊で津波の被害にあった畑から小さながれきを取り除く作業に従事した。震災から1年以上、一目みただけなら、単に作付けを待っているだけに見える畑だったが、また農作物が育つようにするためには、土に含まれる小さながれきを何度も取り除き、また栄養のある土と何度も撹拌し津波により土に含まれてしまった塩分を中和していく作業が必要だと知った。畑まで移動するボランティアバスを見て、手を合わせて頭を下げてくれたおばあちゃんの姿が忘れられない。
このときのわたしには、時間と体力と、関西からのツアーに1回参加できるだけの財力があった。しかし、このときのわたしたちの作業を終えてもまだ畑は作付けできる状態にはならない。被災地の復興には継続的な支援が必要で、ただしそれはボランティアの善意だけではいつか破綻する、どのような道筋を作っていくべきなのかを考えるきっかけになった。

熊本地震と九州北部豪雨で知ったミスマッチ

2016年4月、今度は熊本を地震が襲った。熊本にグループ企業を持つわたしの会社では、すぐにグループ企業の顧客支援と事業継続のためのプロジェクトが組まれ、わたしも複数回熊本に派遣された。自分の家も被災し、高齢の家族を抱え、ライフラインの停止によりシャワーや洗濯もままならない中、顧客や会社内で他の人に負担をかけることを理由に毎日ギリギリの状態で避難所や一時避難している車中から出勤している人がたくさんいた。特に管理職に自分の気力・精神力を限界まで使って組織を運営している人がたくさんいて、本当に頭が下がった。わたしたちのような県外からの従業員の派遣により、彼らに休みを取ってもらうことができた。災害発生時の速やかな支援の現場に立ち会い、その重要性を認識した。
一方、ミスマッチを感じる瞬間もあった。一般的に災害時に必要とされる物資について、県外で調達して運搬を行っていたのだが、多くの物資について過剰供給が見られた。物資が過剰供給の状態なので、それを運ぶためにやってきた人員についても同様だ。また、上記プロジェクトの終了後しばらく、当社は熊本に休日を利用したボランティア派遣を行ったが、その際にもボランティアにすることがなく待機状態である一方で、ボランティアセンターの運営をしている方々が疲労困憊で見ていられないほどであるなどの状況もあった。2017年の九州北部豪雨でも同様で、30人がかりで1日泥の掻き出しをしても作業が終わらない家がたくさんあった一方で、ボランティアセンターでの手配が追い付かないとの理由で派遣が一時終了し、以降わたしの会社で派遣が再開することはなかった。ニーズと適切な人材のマッチングは災害・疫病の状況下でも必須であると感じた。

新型コロナの日々を見て

そして、2019年末に中国武漢から発生し未だ世界で猛威を振るう新型コロナ。誰もが患者や社会的な被害者となり得る状況で、身体的な罹患や疲労に起因しない、歯車が上手くかみ合わないことによる疲れが、日本には広がっているように見える。
恐らく一番疲れているであろう医療関係者の方々。これだけの命の危険の中での激務をこなしながら、ボーナスがカットされるのはなぜなのか。必要な備品がいきわたらなかったり、外注できていたはずの仕事まで担当させられたりするのはなぜなのか。保健所や行政機関についても同様で、地公体によっては日に何百人もになる新規患者の病状把握や病院・隔離施設への振り分け、交付金の申請受付などは、通常の業務に上乗せされていて、全てを完璧にこなせるようなスーパーマンがいるわけがない。
しかし一方で度重なる自粛により経済がうまく回らないことによって業績が悪化する企業が出てくるのも必然で、職を失う人もたくさん出てきている。彼らの困窮具合はニュースや討論番組で見ていても辛い。人手の足りなくて苦しいところと、職を求める人のマッチングがうまくいっていないのではないだろうか。また、物資やサービス、資金についても同様であるように思う。
この、歯車が上手くかみ合わないことによる疲れが人を攻撃的にしているのではないだろうか。外食する人を一律に攻撃したり、出入国する人を無責任だと言ったり、企業の写真に「※感染対策を十分徹底して撮影しています」の文言が必ずつけられるようになったり、公務員との会話を録音してSNSに曝したり、芸能人のあらを見つけては全力で叩いたり。たくさんだ…。

何もできないのは嫌だから、踏み出したい一歩

東日本大震災から10年。何もできないと思った3.11から、少しずつできることを探って今日に至る。わたしに特殊技術はないし、周囲の何百人・何千人を動かせるような影響力もないけれど、課題の源を探し、それに対する解決方法を順序立てて考えていくことはできる。災害・疫病により苦しい状況にある人に、様々な形の人々の善意を届けることを可能なら仕事としたい、というのがいま私の立っている場所である。
3月31日で締め切りのテーマだから、ギリギリの今書いて、残す。いつか自分がやりたいことを見失った時、このエッセイを見て、写真の松島を見て、指標になるように。

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