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小声の日記(01/29〜02/04)

01/29
前職で一緒に働いた人に現職を紹介する、という日。自分はただ参加するだけなのになぜか緊張した。お見合いの仲人みたいだった。でしゃばってはいけないと思い、聞く人になっていた。
夜、家のことで口論になる。そもそものお互いの優先度合いとか、ちゃんと言葉で伝えてこなかったことで生じたすれ違いによるものだった。かたやご自由にどうぞ、というスタンスと、かたや一人じゃ無理だから一緒にやろうよという、そりゃそうなりますって、みたいな感じだった。反省。

01/30
一夜明けて口論のほとぼりは冷めている。ちゃんとやさしい人になりたいな、と漠然と思う。一人の時間も大事にしたいけど、二人の時間ももちろん大事にしたい。でもバランスが難しい。今日はぜったいに本を読みたいと思っている中、それができないとモヤモヤしてしまう。 1日の中でこれはやりたい、と思って組み込んでいたことができなかったときの切り替えの下手さに呆れてしまう。柔軟性がない。
仕事、今まであんまり関与してこなかった領域に首を突っ込んでしまった気がする。なんかすいませんと思いつつ、わからないまま手探りで進めている。「あいつ最近めっちゃ首つっこんでくるよね」とか思われていたらどうしよう、と思う。なんかすいません、としか言えないかもしれない。

01/31
仕事を午前中で切り上げ、アップリンクへ。THEE MOVIEを観に行く。
何度も見たラストライブの映像が主で、時折過去のライブ映像やインタビューが流れるようなものだった。亡くなったときに掲載された写真と同じ姿をしていて、チバユウスケはあの頃からずっと同じ姿勢を示し続けていたのかな、と思う。
映画自体はとても良かったものの、前の方の席にいた人が喋ったり腕をあげたりしていて、気持ちはわからなくもないけど、後ろの人見にくかっただろうな、と思って悲しくなった。ロックンロールってそういうことじゃないと思う。

02/01
焙煎日が近づいてきたのでInstagramのストーリーズでお知らせをする。 「脳のお休み」も推したくて追加したときに書いたけれど、この本を読んでいて内沼晋太郎さんと土門蘭さんの対談記事に書かれていた一文を思い出したのだった。

個人の「小さな物語」を書くことで、世の中の「大きな物語」に呑み込まれないようにしている。きっと「満員電車で辛そうに出勤するサラリーマン」も、「大きな物語」の登場人物なのだと思います。だけどその人が「今日という一日」を書けば、それは「小さな物語」になる。その足掛かりとして日記があるのかもな、と。

日記を書くのは「本日の肯定」のため。割愛された「生きる」を見つめて

日記もエッセイも小さな物語の一つで、そういった類の文章を読みたくなるのは思考放棄への誘導に対するささやかな抵抗なのかもしれないなと思った。

02/02
本が売れなくて困っている。胸を張っていいものだと言えるものなんだけど。売り方が悪いのだろうか、一冊だけだからだろうか、ただ自分の知名度がないからだろうか。 本が捌けないとなんだか申し訳ない気持ちになってくる。個人の店から発生する出版社・著者への貢献度なんてたかがしれているかもしれないけれど、責任を持って届けようと決めたこの本が届かないことにやきもきする。実力不足。でもきちんと、全て売り切ってみせたい。時間がかかっても、ちゃんと売りきったのだという経験にしたい。まだまだこれから、悲観することではない、と己を鼓舞する。

02/03
頭痛と眠気。頭にモヤがかかっている。世界が綺麗に映らない。
焙煎日。終盤、豆を出すところで焙煎機が腕に当たり火傷をする。運悪く袖をまくっていて、高温の鉄板に直接当たるようなかたちになってしまった。ジュっという音とともに痛みが走る。当たったところをみると皮膚が縮こまっていた。ヒリヒリする腕に意識を向けて、失敗とともに自分の身体が傷つき、回復したりしなかったり、傷跡が残ったりを繰り返して自分という生き物が一点ものになっていくのかと考えたりしていた。これまで負った傷が、個性の種になっているような気持ち。

02/04
起きてから火傷した腕を水で清潔にした後、保護テープを貼りなおす。テープを貼っている間はなんともないのに、空気や水に触れるとじわじわ痛みだす。傷口は赤黒くなっている。明日皮膚科で見てもらうことにする。
その後、豆の梱包。今回注文なさそうだなと思っていたのに、焙煎日翌日の今日も注文が来たりしてとてもありがたく、うれしい。

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