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岡田温司『イタリア現代思想への招待』

ツアーガイドのような本だった。入門書、とは少し違う感じ。読むうちに実際に当地に赴いてみたくなるようなところがある。だから「招待」というのは偽りのないタイトルだと思う。

ツアーガイドらしさの一部は、その読みやすさ、カジュアルさによる。カジュアル、といってもインスタント食品のような手軽さでもない。むしろ、丁寧に気を配って作られた料理だからこそ食べやすい、といったら伝わるだろうか。

読んでいると、その分かりやすさやコンパクトにまとめられたトピックの裏側に、非常にストイックな著者の仕事が見えてくる。なるべく広くエリアを俯瞰できるよう、それぞれの思想的スポットは短くまとめられ、話の混乱を避けるため議論の深追いは注意深く慎まれている。

短くまとめつつも、それは(たとえば僕のような)門外漢、素人でも自力で咀嚼できるように調理されている。それは、スムージーのように、飲み込むのにほとんど努力を必要としないレベルまでは分解されていない。こういう加減の細やかさには頭が下がる。

もちろん、文量がシャープに削ぎ落とされている以上、場所によっては「もっと詳しく知りたい」という物足りなさを感じることもあった。でもそれって、ツアーガイド的には優れた資質だ。この一冊で満足してしまったら「招待」としては機能しないわけだから。

「まるで何ひとつわからない」という本を読むのは苦痛だ。おそらく途中で投げ出してしまうと思う。けれど、「わかりやす過ぎる」本も少しつまらない。わがままかもしれないけど(というか確実にわがままだ)、本当にそうなのだからしょうがない。

小説でもエッセイでもレシピ本でも哲学書でも、読むことで得られる新しい発見と、読み切れずに残される謎の配分がちょうど良いほどに、もう一度読みたい、という気分が強くなる。

この本も再読したいと思った。けれど、それ以上に、ここで紹介されている思想家の仕事に触れてみたい、という気持ちの方が強い。繰り返しになるけれど、そういうのって、とても良いツアーガイドではないだろうか?


興味を引かれた話はいくつもあったけれど、とりわけ強く自分の印象に残っているのは、美学によって生政治を読み解いているような部分だ。

さまざまなエステ産業に象徴されるように、科学技術とバイオテクノロジーの時代における生政治は、生の支配をますます審美化しつつあるのである。

自分は、生政治の背景に、効率至上主義という価値観があるように捉えている。人口調整に代表される、個人の「生」を政治的に支配する手つきにおいて、その生産性や経済的合理性、統治の効率を上げることは暗黙の了解になっているように思える。

フーコーは現代の権力がそれを達成する仕方を「規律訓練」に求め、ドゥルーズはデジタル時代にはそうした訓練による主体の馴致を素通りして、テクノロジーを活用したより即物的・機械的な「管理型権力」というモードが登場していると語った。

ところが、実のところ生を飼い慣らす規範には、一見すると効率や管理と馴染まないような「美」や「芸術」との関係が出現しているという。

健康的なダイエットと病的なダイエットのあいだの境は、ますますあいまいなものになっているのだ。医学的防衛のメカニズムは、ひるがえって死政治へと転倒しうるのであひ、このことはわたしたちのまわりでごく日常的に起こっている。

自己の生の様態、たとえば典型的には容姿や体型を、美的基準との差分という視点で過度に参照するという、過剰な自己免疫的ふるまい。

当たり前のことだけど、個々人の身体はそれぞれに違う。そうした固有の身体の持つ個別の生理的な特性を無視して、その外形的な美の理想への接近が優先されるとき、「ダイエット」は生理状態の恒常性を撹乱する「病的な」ものとなる。

要するに、経験の偶然性や他者性、予見不可能性へのあらゆる開かれから閉ざされた生のかたちが、生政治の審美化とともに出現しつつあるのだ。

個人の身体が「偶然」に負った傷のような個性、その身体が己のほしいままにならないという意味での「他者性」を無視して、それをコントロールしたいという欲望。バイオテクノロジーは、そうした身体の「管理」を可能にしつつある。

これは個人的な考えなのだけど、各人の美的な趣味というのは、なんであれ否定してはならない、そういう規範があるように感じている。そうした規範のもとで、美的な観点から身体に対して行われる、偶然性を排するような管理的介入は、それが個々人の美的センスに基づいた自己決定であると捉えられるかぎり、それに対する批判的な検討は躊躇われる。

他者の審美的判断を批判すること、あるいはたんに吟味すること自体、どこか規範にもとるような気がしてしまう。だとすれば、もしもそこに危険が潜んでいたとしても、それは見過ごされやすくなるだろう。あるいは、何か危ういものを感じ取ったとしても、そのリスクは軽んじられることになるだろう。審美化には、生政治を心理的に不可視化するような働きがあるように思える。

ところで、美的な欲望や美の価値観は、ひとつの完成したパッケージとして生まれつき与えられているような種類のものではない。それは個人の生まれ持った身体感覚の固有性だけでなく、生きていく中で育まれていく文化的・経験的要素のある精神的感受性と関わりの深いものだ。

さまざまな経験を経て、十年前と今とで、どんなものを美しいと感じるかが変わるのは自然なことだ。また、世間の流行によってそうした美的な趣味が左右されることもまた自然なことだ。

外部から与えられた経験や知覚を通じて形作られる以上、日常生活の中で触れる無数の広告が伝える審美的なメッセージは、一種のサブリミナル的な規律訓練として働き得る。というか、そうでなかったなら広告産業は存在していないだろう。そしてビッグデータとAIを活用した広告アルゴリズムの洗練化に、管理型権力の手つきを重ねて見ることは難しくない。

こうしてみると、審美的な観点から行われる個々人の身体=生へのテクノロジーの介入という事態には、「各人の美的な価値観の尊重」という神聖な規範のヴェールの向こう側に、市民ひとりひとりの内面の馴致による個々の生の支配という、生政治の構図が隠れているように見えてくる。


自分にとっては非常に興味を引かれる議論だけれど、この本では、このトピックにそれほど深く立ち入ってはいない。というわけで、後日、同著者の『芸術と生政治』や、ロベルト・エスポジト『近代政治の脱構築』などに手を伸ばしてみようかな、と思っている。

この本のタイトルに偽りはないと書いたけど、あらためて振り返ると、「招待」というより「誘惑」されているような気がしないでもない。

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