おばけと創作
物語の中の旅
自分が生涯必要ものは「非日常の世界」だ。
本とか音楽とか絵とか映画とか漫画とかアニメとかゲームとか、誰かの日記とか、誰かの思い出とか、誰かの古い写真とか、あるいは散歩とか旅とか山登りとか。あらゆる場所に物語への扉があって、それを見つけて覗く事が好き。この社会から、自分から、肩書から、切り離された場所で、ひとりきりになれる時だけ私は呼吸ができた。
*おばけについてはこちらの記事にて説明しています
空洞と模倣
自分でその物語をつくる事に憧れている。物心ついた頃から、書く、描く、撮る、という事を無意識に続けている。でも、私には創作という事ができない。自分というものが分からず、確信がなく、空洞で、イメージというものがない。書きたいことも描きたいこともない。
音楽でも言葉でも絵でも、その人の内側にあるイメージを形のあるものにする行為が「表現」や「創作」であると私は解釈している。
10-12歳くらいのころ、別の世界に浸るのが楽しく、夢中になって児童書を毎日読んでいた。学校で作文を書く授業があって、題材は自由だった。私はその時読んでいた本に影響を受けた物語を自作し何枚も書き、提出した。「意味がわからない」と教師に赤ペンで書かれた作文が戻ってきた。教師が良い作文として選んだ生徒のものは、夏休みの、麦茶についての話で、感情豊かにその生徒の気持ちが伝わりとても良かった。私は、自分の作文が猛烈に恥ずかしかった。自分の物語ではないただの模倣で稚拙で意味の分からない何かが。
それ以降物語を書く事は全く無かったが、そのころから自分には何でも話せる友達というものが無かったため、ずっと日記を書いていて、その習慣が今も続いている。書く事で自分を知ろうとしている。自分の輪郭を探し、自分が何を考え何を感じているか、わかろうとしている。自分の思考や感覚を言葉にする事は好き。それでも自分の文章には、やはりイメージが無い。色や香りや光や空気や湿度や風や手触り、そういうイメージが自分の文章には、無い。結局、創作ではなかったとしても私の書くものは物語にはなり得ない。
そして誰かの目に触れる文章を書くとき、それは本当に自分の考えか、誰かになろうとしているのではないか、欺瞞ではないか、という不安がまとわりつく。傲慢ではないか、偏ってはいないか、差別的ではないか。”間違えないように”書いたものは、なんとなく、無味無臭で嘘くさくて、書いていても不自由な感じがした。
「描く」という行為や絵を見る事に興味が芽生えた、5,6歳くらいのとき、姉が描いたはさみやセロテープの絵をよく眺めては、いいなあ、と思っていた。上手いなあ、というのではなく、線が、頼りなく歪んでいるところが、好きだった。その線が姉なのだと思った。自分も描きたいと思って何かのイラストを模写して描いて父親に見せたことがあった。父親はそれを親戚に見せて、みんな笑った。馬鹿にされて笑われたという事だけはわかっていた。笑われた事に傷ついたが、私は描く事さえ、「真似」が正しいのだと思っていたのだな。
正しさなんてない
自分は中身が空洞のおばけなので自分というものが確かではない。
だからほとんどの行動において他人の真似をして何が「正しい」のか、間違えないように必死で生きてきたから、何が自分らしくて自由なのかわからない。けれど絵をみたり文章を読んだりするとき、のびのびとした自由なその人らしさ、というものを感じる事はある。そういうものに触れると私はうれしくてたのしい。だから私もそういうものをつくったりそういう風に生きていきたい本当は。
私の写真の中のちいさな世界
13歳くらいのとき、おもちゃみたいなデジカメを手に入れ(父親のパチンコの景品だったかな?)、散歩をしながら写真を撮った。その写真を見ると、自分が撮った日常の風景であるのに、自分と切り離されてどこか知らない場所のように感じられて不思議に面白かった。その後コンパクトフィルムカメラを手に入れ、一眼レフカメラを手に入れ、写真を撮りつづけた。それはほとんど散歩中の景色だ。フランスに来たことによる風景の変化でより、自分で撮った写真を好きだなと思えるようになった。自分で撮った写真を見ても、自分で書いたり描いたりしたものを見るときに感じるような不安はない。偽りも間違いも正しさもない。私は私の写真が好き。ここではないどこかの景色がなんだか胸に迫ってくる。ちいさな別の世界から、風や光や湿度や色や音が流れてくる。これは心象風景なのだろうか。自分が言葉を扱うよりも写真に心が現れてくることもある。
写真を撮る事が「表現」であるかどうかはいまだによくわからない。そして自分の撮った風景の写真を「作品」と呼ぶ事もあまりしっくりこない。写真に「自分らしさ」があるかどうかもよくわからない。
そこに小さな世界があることが私はうれしい。だから私は私の写真が好き。でもその写真を多くの人に見てもらいたいとか、何かをしたいとかいうことはない。ただ自分の写真が好きという事が、自分を支えてくれている気がする。(アーカイブとしてウェブにアップロードをして、「見られる」事は多少意識しているけれども。)
カメラを扱えても私はカメラマンにも写真家にもなれない。仕事にできない。金銭を得るために誰かの指示や要望で写真を撮る事ができない。そういった事をしたときには、嫌悪感が強かったので一切やめた。自分の思うようにしか撮りたくない。
ある写真について「この写真はあなたの考える愛についての写真ですね」と言われた事がある。私は写真を撮るときに何も考えていない。テーマもない。大抵、光か影か風のことを見ようとしている。写真に意味を考えた事がない。だから、私の写真を見た人が何かを感じたとして、それは、見た人の中のなんらかが写真と繋がったのだろう。見た人によって感じるものや景色が変わるのであれば、それは良い写真なのだろう。私と感じたものと違うものを感じても良い。そういう風に自由であっていい。でも、「この写真はあなた(撮影者)の考える愛ですね」と言われたら、「違います、それはあなた(閲覧者)の思う愛でしょう。」と答える。(実際そう答えたがわかってもらえなかった)
そして私は「愛」の事が一番よくわからないし、この先もそれに救われる事なんてないだろう。軽々しく使われ、溢れる「愛」というものを私は一番疑っている。
それでよい
「間違える」のを怖がらなくていい。間違えればいい。そこから学べるから。そうして私を見つめてゆければいい。
愛がわからなくてよい。自分がわからなくてよい。やさしくあろうとしなくてよい。親切なふりをしなくてよい。ずっと笑っていなくてよい。大切なことを言葉にしなくてよい。人に合わせなくてもよい。嫌なことを嫌だと言ってもよい。好きなものを好きだと言ってもよい。正しくあろうとしなくてもよい。素直であってよい。何も恥じなくてよい。私は私であってよい。
私が私であれたとき、見つけられるものは何だろう。
おいしいアイスクリームや、読んでみたい本を購入する事につかいます!