見出し画像

憂鬱な瞳

ひと抱えのチューリップと薔薇…という空想  

まゆこはこの休日をギヨーム・アポリネールの詩集を手に、敷地の東側にある温室や庭園をなにとなく歩き、蝶のはばたきや魚のおこす水のゆらぎのような気持ちでいた。
そうして西陽から身を隠すように寮にはいり、部屋に戻るでもなく階段の踊り場で、ぼうっとあの世の片隅に思いを巡らしていた。

寮の階段の踊り場にはふたつの窓があって、木の格子に旧い硝子が嵌っている。鉄の輪に金具を引っ掛けるだけの簡単な鍵がついていて、内側から外開きに窓が開けられるようになっている。

ガタン、と近くで大きな音がしてまゆこが我にかえって振り返ると、祥子が窓を開け放していた。

「都会の麗人さん」

祥子は片手に蜜柑を持って、窓辺に立っていた。外からの光と踊り場の暗さの間を結ぶように、黒無地のハイネックで袖のない躰にぴったりとしたマーメイドラインのロングドレスがロマン・ド・ティルトフの版画のような印象でそこにあった。
祥子が緑がかった蜜柑にその桜色の爪を食い込ませると、まゆこの鼻にツンとした酸味が香ってきた。硬そうな皮を剝いて蜜柑のひとふさをはずすまでを、まゆこは石畳に目を落としながら待っていた。

「東の塔のかたね。お邪魔してご免なさい。」

祥子は蜜柑の薄皮を丁寧に外しながらまゆこの瞳をじっと見つめていた。

「あなたのこと、今日は窓辺から散々お見掛けしたわ。西の塔からよくいらしたわね。」

まゆこは少し首を傾げて黙っていた。祥子は蜜柑の皮の欠片を窓の外に放り投げると、裸になった果実を指先でつまみ、その場で食した。

「わたし、誰かがいるなんて思いもしませんでした。」

まゆこは、祥子に何故関心を持たれているのかわからないまま、祥子のチグリジア・オレンジ色の口紅が果汁で濡れるのを見ていた。夢をみるように1日を彷徨ったまゆこには、祥子の穏やかで強かな眼差しがまゆこ自身を現実に繋ぎ止める釘のように思われた。

「宜しかったら、こんど私の部屋にいらっしゃい」

まゆこは、突然あらわれて果実を片手に話しかけてきた祥子の振る舞いを、何故か野蛮にも失礼にも感じていなかった。そのような振る舞いが、誰もいないこの休日を過ごし出会った相手に対する作法だとさえ思えた。

「お誘いありがとう。わたし…」

「今度会ったときに、きかせてもらうわね」

祥子はまゆこの言葉を遮るように踵を返し、窓辺に剥きかけの蜜柑を置いたまま階段を降りていった。
ひとり残された気分になったまゆこは、名前も部屋番号も知らない相手が残していった香りと面影をぼんやり感じていた。

まゆこは祥子の残した蜜柑を拾って東の塔へ戻っていった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?