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揺れるロウソク

百円のライターで赤い蝋燭に点すと、半径2センチ高さ1.5cmの銀皿をつまむ指先には、瞬く間に910℃の焔に炙られた空気が伝わった。

あのひとに初めて会ったときの、ひと抱えのチューリップと薔薇…という空想を思い出していた。

ブランケットの中で身を縮めて、白くなりそうな息を指先に吹きかけながらまゆこは蝋燭の火を見つめていた。
床の木目は水面のように揺れ、まゆこは思考の昏がりに少しずつ沈んでいった。

「どうか、君はひと抱えのチューリップと共にいて」
山猫みたいな細い目で睨むように微笑んだあのひと、黒々としたみどりの髪が緩くうねっていて、白いシャツと少し焼けた健康的な肌が朝日に眩しくて…
他の学生たちから少し浮いたエキゾチックな雰囲気に、特別目が覚めたような気持ちになったのを思い出す。

思い出すのは入学式の一場面だけで、祥子さんはあんなに語るのに、結局まゆこはあのひとのことを何も知らないままであるような気がしてくる。
ホットミルクの甘さがしみるような寒い夜に、銀の小さな皿の上に焔があってよかったと思う。
この焔がなければこの石の塔の冷たさと暗さが、あのひとと祥子さんの聳え立つ魂の城としてまゆこを覆い…

まゆこは石でできた樹木の中で眠り続けて、ついに木乃伊になってしまった。まゆこの躰の外側には、樹木の繊維が溶け出して纏わりつき、石の繭がつくられた。その中でまゆこの躰は分解していき、やがてカスタードのなり損ないのようになり、外の世界が夏を盛ってエメラルド色に光るのを眺めていた。
季節が巡るのを、まゆこだったものは瞼を捨てて見つめていた。時が経ち何巡目かの秋、茸の胞子のような粉状の眠気が降りかかり、まゆこだったものが変質して溶けたバターのようになった。
石の繭は細かい繊維の重なりでもってまゆこだったものを包んでいたが、ついにその僅かな隙間を埋めるように蜜のような液体が漏れ出し始めた。

まゆこだったものは鈍い痛みを覚え、久方ぶりに自分の肉体の存在を思い出した。といってもそれは幻覚痛であり、どこが痛むのか見当もつかないのだが、空中かイデアの向こう側かどこかに浮かんでいる刺激は恐らく光の存在が作り出していた。
繭の外側にの樹木の隙間から僅かに差している春の朝の光が蜜を照らし、貫いて、通り抜けていった。
そのときまゆこの意識のようなものが起き上がり、冬眠の明けのようにあたりを見回した。

「繭の外に漏れ出ていかないで、朝の光に散らされないで」

まゆこの意識のようなものは蜜をかき集めようとして、まゆこは自分の両手を思い出した。両手は魂の輪郭しかなく、肉体は何も掴むことがかなわないと知ると同時に、まゆこはまゆこの意識があることを思い出した。
まゆこの意識が身じろぎしようとすると、まゆこの意識の中にある右の肩甲骨が繭の内側に接触し、瞬間石の繭は薄氷かキャラメルのように割れて砕け散った。

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