ひなぎくの小路

 巨大なキャリーケースと、革の学生鞄を、まだシーツも張っていないベッドの傍に放り出した。

 シャツ衿の一番上の貝釦だけ開けて、髪は高い位置でシニヨンヘアにし、ピンクグレージュのワンピースに水色の傘を持って部屋を出た。誰もいない石畳を歩き、重い木の扉を押して外へ出ると、ラムネ瓶のような淡水色の空に羽雲が散らばっていた。陽光の暖かさにまだ夜の影が残るような風が吹いていて、まゆこは首元に軽くそれが当たるのを楽しんだ。振り返って塔を見上げると、灰色の石の塔は不安を駆り立てるような存在感を放っているようにもみえ、あるいは学生たちを抱く堅牢な揺り籠のようでもあった。塔の周りを取り囲む庭はまだ葉も十分に芽生えていないが、所々に色鮮やかな若葉が芽吹き、彩度の低い庭の中で一際宝石のように輝いていた。
庭は五百メートルほど続いており、それを抜けるとあたりはやや殺風景になった。東にどこまで続いているかわからない森を見上げ、西を向けば木々の隙間に空と海が見えており、その先は崖のようだった。庭を抜けてみるとその周りには、白いペンキの剥がれかけた鉄柵が並んでいて、朽ちかけた薔薇のつるが所々に絡まっていた。
 この庭は誰が手入れするのだろう、いつかナナホシテントウムシやモンシロチョウが盛んにみられるようになって、一番早い薔薇が虫食いになってしまう頃に、作業着の白髪の老人が剪定ばさみを持ってここへ来るのを見られるだろうか。夏の頃はきっと強い太陽の下と湿った土の上で汗ばんだ白いシャツが健康そうに輝くのだろう…
 まゆこがぼんやり白昼夢をみていると、遠くからまゆこに話しかける声があった。
「おじょうさん、乗りますか、乗りませんか」
 まゆこが振り向くと2,30メートル先にブリキのおもちゃのようなえんじ色のバスが停まっていて、制服を着た運転手らしき初老の男がバスを降りてこちらに叫んでいる。
「…あ、乗ります、乗ります」
 まゆこは慌ててバスのほうにかけていった。
 急いでバスに乗り込んで見渡すと、まゆこのほかには誰もいなかった。
「よかった、この時期はまだ本数が少ないからね。新入生ですか」
「そうです、わたし予定より早く越してきたんです」
「そうでしょう。入学式の頃にはもっと本数が増えますよ。どちらまで?」
「文房具屋さんがあるって聞いたんですけど…」
「ああ、買い物ですね、わかりましたよ」
 まゆこが前から二番目の椅子に腰かけると、バスは動き出した。
最初のうち、木々の間からはるか崖下に海が見えていたが、それからあっという間に道は木々に囲まれ景色は森の中へと変わった。10分そこらで山道のような景色を抜けるとやがて木々は減り、代わりにまず工場のような建物の巨大な煙突から白い煙が出ているのを遠くに見て、次に広いテニスコートやグラウンドのなどのそばを通った。そしてまもなく、鉄柵に囲まれた巨大な建造物が連なっているものの周囲を走ってゆく。それまでの道は一本道で、標識がほとんど見当たらなかった。
 まゆこが外を眺めているとバスはゆっくり減速し、道のわきにバス停があらわれた。鉄柵のそばに警備員の小さな駐在所がある。
「着きましたよ。南門です」
 バスの乗降車口が開いて、まゆこは立ち上がり運転手に会釈をした。
「帰りは同じバス停ですか」
「ええ、そうですよ。施設の中にも巡回バスがあって、このバス停まで連れてってくれますから。ほかの寮はみんな反対方向なので間違えないように」
「わかりました、ありがとう。」
 運転手は軽く帽子をもち上げて会釈すると、バスを発進させた。

 駐在所には誰もいず、防犯カメラが静かに作動していた。閉じられた門には右手にICカードリーダーが備え付けられていた。まゆこが寮生証をかざすと突然電話の呼び出し音がどこかから降ってきて、まゆこは驚いて肩をすくめた。2コールするとガチャンと音がして、誰かが受話器を取ったようだった。
「こちら警備室です、入学生ですか」
「は、はい」
「寮生証を照会するので少々お待ちください。寮はどちらですか」
「南です」
 すると数秒の間ののちに
「確認が取れました、お通りください」
 ガチャン!門が開錠された音がしたと同時に電話は切れたようだった。まゆこが恐る恐る取手を引くと、門は開いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?