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マルチリンガルは多重人格

私は日常的に3言語を話して生活している。

そして、言語の切り替えスイッチ同様に人格切り替えスイッチがある。

意識的に人格を変えてるわけではないけれど、例えば日本語を話すときと英語を話すときで明らかに性格が変わる。日本語を話すときにはいわゆる日本人的な部分が全面に出てきて、言いたいことをはっきり言えなかったり、曖昧に濁す表現をよく使ったりする。自動的に周りの状況を1番察しているのも日本語を話す自分のときだ。


どの言語を話すときの私も私自身で間違いないし、自然な形で出てくる人格なのだけれど、カウンセリングやコーチングをしてもらうとき、日本語以外だと本当の素の自分が出せていない気がする。何語を話すときも「自分」なのだけれど、生まれて初めて身に着けた日本語を話すときの自分が1番「自分」だと感じる。


例えば、英語を話すときの私は、よりオープンだし正直だ。目上の人とも話しやすい。日本人の上司と話すときも、英語で話したほうが角が立たずに率直に話せる気がする。

逆に日本語を話すときは、空気を読むし、曖昧に伝えるし、雰囲気でわかり合おうとする。

だけど、外国語を話すときはアグレッシブになりがちでもある。思いをしっかり伝えたいがあまり、ストレートに言い過ぎてるのではと感じることもある。そしてこれは、本来の私ではないかもしれないと感じるのだ。


言語が文化を造るというのは正しいと思う。そして、言葉と文化が性格を造るという気がする。どのような言葉を話すか、どのような文化にいるかによって人格や性格は変わるんじゃないだろうか。


子どもの頃や思春期の頃に、友達や恋人の前で見せる自分と家族の前で見せる自分が異なるために、家族といるときに友達とばったり会うとなんとなく気まずい思いをした人もいるはずだ。

それと同じで、日本人の友達と英語を話す環境にいて、性格の違う自分を見られるのは少しだけ恥ずかしい。相槌のうちかたやジェスチャーなんかもそちらのものに影響されてる自覚があって、それこそイキってるとかヨーロッパナイズされてるとか思われるかもしれないが、きっと英語を話す中ではそれが自分の素でもあるのだと思う。


他人の前で素を出したり、「自分」でいることが難しい私のような人種にとっては、マルチリンガルになることやマルチカルチャーで生きていくことは容易ではないのだ。

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