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建築の可能性と不可能性の境界 ──自主ゼミ 「社会変革としての建築に向けて」レポート 谷繁玲央

建築家・連勇太朗が、ゲスト講師を訪ね、執筆中のテキストを題材に議論する自主ゼミ 「社会変革としての建築に向けて」
2021年8月25日に行われた第2回、建築家・秋吉浩気との議論のレポートです。
執筆者は、建築構法と建築理論を専門としながらも、近年、若手建築家に着実に社会改良を目指す漸進的態度を見出し、「グラデュアリズム」という言葉を与えた谷繁玲央。

自主ゼミ第2回では、連とVUILD代表の秋吉による議論が行われた。会場は2020年春にオープンしたVUILD本牧工場。三菱重工業横浜製作所内に設けられた「Yokohama Hardtech Hub」の一角にある。スタートアップをはじめとして様々なハードテック企業が入居しているが、それぞれの規模や設備も大きいので、一般的なインキュベーション施設とはかなり趣が異なる。VUILDのスペースにも、その代名詞であるShopBotや、Biesse社の大型5軸CNCが2台設置されている。こうした工作機械の傍らには、各プロジェクトの模型やモックアップがあり、新たな住宅事業である「Nesting」の実大の組立ても行われている。同じスペースで加工から組立てができる、理想的なプロトタイピングの環境という印象を受けた。この場所を見ればわかるように、いまVUILDは新たな展開を迎えている。この日の議論も、旧知の間柄であるという連と秋吉が、改めてモクチン企画とVUILDの歩みを確かめながら、それぞれが迎えた新たな展開を伝え合うような議論になった。

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プラットフォームだけでは誰も使わない

議論の冒頭でも言及があったが、ふたりには共通点が多い。ともに慶應SFCの出身で、若くして起業し、プラットフォーマー志向である。木賃アパートの改修手法のレシピ化や、ShopBotを利用した分散的な生産システムの整備といった彼らのコア事業は、誰しもが利用できるプラットフォームをつくることを目指している。しかし、彼らが事業を展開するなかで、「プラットフォームを用意するだけでは誰も使わない」という共通の問題に直面した。モクチンレシピ、ShopBotの整備だけではなく、それをどのように使うか、それにはどんな能力が必要か。その答えを自ら示してプラットフォームの利用者を増やす過程が必要だった。こうした問題意識のなかで、モクチン企画もVUILDも教育と実践という展開へ向かう。

新たな建築教育へ

ユーザーへの教育という意味ではモクチン企画は不動産業者向けのコンサルタントを始めたり、VUILDはEMARFアンバサダーをはじめとしてユーザーのスキルを高めるような戦略をとっている。IT企業などではエヴァンジェリスト(伝道者)と呼ばれる人が新商品紹介やユーザー向けの教育コンテンツを用意することがあるが、こうした取り組みにも近い。最近では、VUILDは小中高生への建築教育のプロジェクトをスタートさせているそうだ。なかにはRhinocerosを使いこなす小学生もいるという。世界中でCoderDojoのような子どもたちにScratchやRaspberry Piを教える場所は増えてきているが、そうしたリストのなかにRhinocerosやShopBotが加わるような時代がすでに始まっているのかもしれない。
この日の議論では連も秋吉も、既存の建築教育に対する懐疑を口にしていた。現在の建築教育は、技術や生産システムなどのハードの問題も、政治や社会に関するソフトの問題も十分に組み込まれず、それらから独立した意匠の問題ばかりが内向的に重視されている側面がある。建築的なスキルを持つ人々を増やそうとする秋吉に対して、連は大学に研究室を持ち、改めてアカデミックな世界で新しい建築理論や建築教育を始めようとしている。技術が汎用化するなかで、新しい専門性とは何か、今後の自主ゼミでも議論していく必要があるだろう。

実践からの学び

「プラットフォームだけではプラットフォームにならない」という問題に対し、モクチン企画もVUILDも自ら実践することで応えてきた。前者は新築のプロジェクト「2020/はねとくも」を竣工させ、後者は「まれびとの家」で彼らの技術が住宅規模に展開できることを示した。一見するとこうした取り組みは、彼らが目指してきたプラットフォーム構築から外れるものかもしれない。ただ、こうした実践を通して、彼らの扱う領域は着実に拡張している。この日私は、「どこまで自分たちでやっていきたいか」という質問を投げかけた。フィードバックを実感できるようなスケールで事業を行っていきたいという連と、可能な限り規模を大きくかつ速度を早めたいという秋吉とで、回答に違いが出たが、秋吉の言葉は印象的だった。VUILDは「他がしていないことをする」「同じことは二度やらない」「0から1を示したら、あとはシステムとしてできるようにする」という指針を持っているそうだ。従来型の建築家であれば「0から1」を続ければよいし、事業家としては「1からn」を加速させればよいだろう。しかし、「まれびとの家」のような実践は、「1からn」が現実的に可能な仕組みを背後に抱えた「0から1」である。それは技術的なプロトタイプであると同時に、ユーザーに使い方を示す手本でもあり、新たなクライアントと出会う契機にもなっている。「2020/はねとくも」も、レシピを利用した物件にはクリエイティブな住民が入居しやすいという運営会社の意見から、アトリエやシェアスペースが付属した物件を新築することになったという。「2020/はねとくも」で利用された手法はモクチンレシピにフィードバックされる。プラットフォームとそれを利用するユーザーという単線的な関係が、事業の展開と共に循環的な関係性を持つようになった。実践によってプラットフォームも変容するのだ。

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「2020/はねとくも」 設計:モクチン企画、2020年
撮影:kentahasegawa

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「まれびとの家」 設計:VUILD、2019年
撮影:富井雄太郎


メタアーキテクトと大工

フィードバックループが生まれるのと同時に、ステートメントにも変化が起きている。秋吉は長らく「メタアーキテクト」を提唱しているが、設計者を支援するシステムの設計者という従来の意味合いに加えて、近年では設計者の先頭に立つ実践者という含意を持たせている。これはかつての伝統的な大工のような職能を念頭に置いている。現場でものづくりをして、そのモノを通して思考する。道具や寸法体系もその都度変更を加える。設計と施工が未分化な時代ゆえの良好な関係がそこにはある(多少、大工の姿を理想化しすぎているきらいはあるけれども、大工集団の再評価は内田祥哉をはじめ戦後の構法学者たちが最終的に到達した結論でもある)。大工たちを支えていたシステムは広大で、それを再現するのは困難であるし、復古的でもある。今後新しい技術によって設計と施工が良好な関係を築くことは、当然ShopBotだけでは叶わないだろう。熟練工が減少している現実に対して、現場の実践知に支えられていた部分を補完するような仕組みはいかなるものか。これは建築界全体で考えていくべき課題である。

資本主義へのまなざし

この日の議論で一番違いがはっきりしていたのは、資本主義へのまなざしだろう。この自主ゼミのなかでも、連は「資本主義の趨勢は衰えないから社会システムを複層化させる」と繰り返し述べている。この捉え方は、当然フレドリック・ジェイムソンの警句「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」や、マーク・フィッシャーの資本主義リアリズム(とその批判)を想起させるものだ。一方で秋吉の立場はあくまで既存の資本主義システムに対するカウンターであるという。傍らから見れば、NPOであるモクチン企画よりも、資金調達を重ね規模拡大を図っているVUILDの方が資本主義と親和的と言えるし、秋吉自身は規模や速度を拡大するためには資本主義的な仕組みも利用するとも語っている。しかし、実際に日頃議論している投資家からは、マネーゲームや金融資本主義に辟易として、VUILDのようなスタートアップに資本主義に対するカウンターを期待するような声も大きいという。今回の議論では、ふたりの間で、NPOとスタートアップという各事業のあり方と、それぞれの資本主義への価値観がねじれているように感じた。それを矛盾と指摘することもできるが、実務家ゆえのアンビバレントな態度なのかもしれない。

「着実さ」とその倫理 ──グラデュアリズムの建築家

2年ほど前から私は、徐々にそして着実に規模を大きくしながら建築の量的な問題を取り扱おうとする建築家たちの立場を指して「グラデュアリズム」*1 と呼んでいる。当然、念頭にあるのはモクチン企画やVUILDの存在である。この言葉は、手法や対象も規定していないし、概念としては保守的なものだ。グラデュアリズムの建築家は、大風呂敷を広げたり、建築表現の世界に閉じこもったりするのではなく、建築がその他の様々な要素(建築界では社会と呼ばれたりする)に対してできることやそれによって得られる効果を着実に実現しようとしている。この日の議論を聞いて、グラデュアリズムの定義に入れていた「着実さ」を具体的に感じることができた。プラットフォームから実践へと展開するにあたって、彼らは何が可能で、何が不可能かという現実の境界線をより精緻なものにしている。建築の不可能性にも言及することが現代の建築家のリアリズムであり、倫理なのかもしれない。
初回の能作文徳との議論も考えれば、ゼミ2回目にしてすでに三者三様の立場が浮き彫りになってきた。能作の言葉には建築家にできることは限られているというリアリズムが表れているし、連は資本主義リアリズムを引き受けながらその先を考えている。秋吉は資本主義批判をしながらもその仕組みを(ある種加速主義的なモチベーションで)利用しようとしている。リアリズムとは、各人の諦めの表れでもあって、それぞれの諦念の隙間には「これならできる」という可能性と「これはしなければならない」という倫理が垣間見える。

建築から資本主義を語ること

私自身は資本主義のなかでも足元の小さなコミュニズムを維持することが重要だと考えるし、政体や社会の変化によって資本主義も永遠ではないと考えているが、資本主義を前提にするなり、仮想敵にするなり、いずれの立場にせよ、議論する限りは資本主義の意味を吟味する必要がある。建築家たちが「資本主義」と名指す時、それは何を表しているのか。住宅金融をめぐるマネーゲームか、それとも曖昧な都市空間が経済的資源へと変換されてしまうことか。「資本主義に疎外されている人々」という時、それは広告イメージに背中を押されてタワマンを買った人々なのか、公営住宅にアクセスできない生活困窮者だろうか。「建築が資本主義に対して何ができるか」という問いを立てるときに、建築という言葉と同程度に資本主義という言葉を問いたださなければ問題自体が表層的なものになってしまう。大工がいないような地域でVUILDを選択肢として選ぶ人々や、数あるアパートからモクチン企画が関わる物件を選ぶ人々が、どんな生き方を選択しているのか。ふたりの議論からはそうした人々の輪郭が見えてくる瞬間がある。彼らはアーリーアダプターで、オルタナティブな生活を選択できる主体性がある。既存のシステムへの懐疑から現実の生活を変えられる人々だ。彼らがまさに現状のVUILDやモクチン企画の取り組みが包摂している人々であり、反対にどのような人々が包摂されていないかを示す存在だ。議論のなかで連は、住まいのセーフティネットや生活困窮の問題を解決しようとすると建築ではなく政治の問題になってしまうと語っていた。この考えは現実に即した実感として正しいのだろう。しかし、例えば「生活困窮者」という言葉に抽象化された人々の生活を個別に見た時に、ミクロな建築が解決できる問題、大文字の政治に回収されない問題はまったくないのだろうか。私自身「建築にできることは限られている」という諦念を抱えながらも、「社会変革としての建築」という理念が包摂する領域を可能な限り広げていくべきだと考えている。秋吉や連が実践するような、個別の建築とそれを支えるシステムが相互作用的に変化するモデルが他の場所でも可能ならば、これまで政治の領域とされてきた課題にも建築でアプローチできるのではないだろうか。その過程では建築にとって資本主義はどんな存在か、その資本主義によって失われている生活とは何か、どんな建築ならその生活を回復できるのか、といった問いに対して具体的な建築の言葉で応答していく必要がある。そうした地道な問答の先にはじめて、「社会変革」と「建築」が結びつき、「社会変革としての建築」が可能になるのではないだろうか。

*1  谷繁玲央「グラデュアリズム──ネットワークに介入し改変するための方策」、「10+1 website」2020年1月号、LIXIL出版


谷繁玲央(たにしげ・れお)
1994年愛知県岡崎市生まれ。2020年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修了(権藤智之研究室)。現在は同研究室博士課程で住宅メーカーの歴史を研究している。専門は建築構法と建築理論。
デザイン・建築・都市に関わる研究者・実践者によるメディアプロジェクト「メニカン」共同主宰。





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