【小説】カラフルな山に救われる。
あぁ、なんでこうなっちゃったんだろう。
私は今、一日中ベットの上で過ごしている。
なにも、だらけたくてベットの上で一日中過ごしているんじゃない。起き上がれないのだ。なにかしたくても、何もする気が起きない。本当に何でこんなことになってしまったんだろう。
私は、化粧品を売る美容部員だった。百貨店で毎日キラキラしたモノたちをお客様に売る仕事をしてたのだ。
元々は生命保険の営業をしていた。生命保険の営業の仕事は、売り上げを上げることに関して言えば、やりがいは確かにあった。
でも、保険の営業というマイナスイメージは自分が働く前に想像してたよりはるかに過酷だった。保険の営業というだけで嫌な顔をされる。めんどくさそうに対応される。中には、「枕営業をして客を取る仕事」だなんて、AVの設定でしか見ないような事を投げかけられることだってあった。そんな中でも、なんとかお客様と信頼関係を築いて保険という商品を売っていた。
ただ、感謝されることはなかった。
契約成立してもお礼を言うのは私。お客様に感謝されるのは、お客様に不幸が起きた時だけ。契約者様が亡くなった。怪我をした。病気をした。そんな時だけ「保険に入っていてよかった。」と思われる仕事だ。
感謝もされない、売り上げを上げるためには泥臭く足を使って仕事するしかない。二十歳で入社して5年間。なんとか若さだけでやり切ってきたのだ。だが、疲れ果ててしまった。毎日歩きすぎて足はパンパンで、提案書の紙の束とパソコンを持ち歩いているせいで、肩こりに悩まされる日々。二十五歳でも十分若いと言われるかもしれないが、私の身体と心は限界だった。
そんな中で、お客様へのお礼やお中元なんかを買いに百貨店に通うようになり、デパコスと言われるものを買うようになった。
私は衝撃を受けた。
働いているお姉さん達がみんなキラキラして見えた。
保険なんて形のない商品を売っている私とは違い、色鮮やかで綺麗なパッケージの商品を売っている。
重い鞄を引きずって、歩き回っている私と違い、ピシッとした制服を着て艶やかにメイクを施された美しい顔で優雅にお客様に接客をしている。
お客様の不幸があった時だけよかったと言われる私と違って、みんな笑顔で店員さんにお礼を言って帰っていく。
私とは、何もかもが違っていた。
とてもキラキラして見えた。
私もそっち側に行きたいと心からそう思った。
そこからの私の行動は、早かった。すぐに美容部員に特化した派遣会社に登録し、内定がもらった瞬間に保険の仕事はやめた。
入社してから思ったのは、外側から見てるよりキラキラしていなかった。それでもお客様に笑顔で帰っていただける。その場で感謝してもらえる。それだけで私の心は救われた。
もちろん、全てが順調にいっていたわけではない。未経験からの転職で、元々そんなに化粧品に興味があったわけでもない。ましてや美容系の専門学校に行っていたわけでもない。全て一からの勉強だった。でも毎日がすごく充実していた。同期にも先輩にも恵まれ、失敗や苦労しながらもなんとかやってこれたのだ。
なのに、なんでこんなことになってしまったのだろう。
私は美容部員として次のステップに進むはずだった。新人教育もさせてもらい、店舗の中でも上から数えたほうが早いくらい先輩になっていた。同期や先輩がチーフやサブに昇進する中で、いろんな経験を積みたいと考えた私はメイクアーティストのアシスタントの試験を受け、見事合格したのだ。
全国の店舗を飛び回り、メイクアーティストの技術を誰よりも間近で長時間見れる。全国各地の店舗で様々なお客様に接客するチャンスがある。これで店舗にも貢献できる。同期や先輩や後輩の役に立つ技術やスキルを持って帰れる。
私の未来は、希望に満ちていた。
そのはずだった。
ある日、突然異動の事例が出た。
昇進するわけでもないただの異動。
本部の人間は、私のためだと言っていた。
そんなこと、私にとってはどうでもよかった。
今の店舗がより良いものになっていくために、私はアシスタントの試験を受けたのだ。そして合格したんだ。これからだったんだ。異動するなら、なんで私はアシスタントの試験なんて受けたんだ。
どうしても状況を飲み込むことが出来なかった。
その次の日から、熱が下がらなくなった。
平熱が5度代の私は、7度を超えるとしんどかった。
熱があると出勤できない。近所の診療所に行き、検査した。でもなにも異常はない。紹介状を持たされて大きい病院に行った。そして様々な検査をした。その間も出勤は出来ない。1か月あった引継ぎの期間もほとんど出勤できなかった。どの検査をしても異常なし。最終的に下されたのが「機能性高体温症」という病名だった。ストレスが原因らしい。治療法はないと言われた。そんなことをしている間に出勤できないまま、異動の日を迎えた。
治療法はなく、人にうつす病気でもなかったため熱が出ててもほかの症状が出なければ出勤してもいいことになった。次は、嘔吐と頭痛を繰り返した。私はまた出勤できなくなった。
会社から心療内科の診察を勧められた。その頃には、発熱・嘔吐・頭痛・不眠の症状が出ていた。心療内科で下された診断は「うつ病」になっていた。
それから私は、休職せざるを得なかった。ろくに元いた店舗での引継ぎも出来ず、新しい店舗に行っても業務を覚える間もなく休職することになった。もちろんアシスタントの仕事も一回も出来ていないままだった。
そこからは、地獄だった。
ベットから起きれない。眠ることもできない。なにもやる気が起きない。病院に行くたびに薬が増えていく。地獄だ。
好きだったことが出来なくなった。内容が頭に入ってこないから、ドラマも映画も見れなくなった。本も読めなくなった。
出来ることは、セリフが言えるくらい見続けた映画やドラマを眺めることと、SNSで流れてくる無意味なショート動画を見続けることだった。
そのうち、何が好きだったかわからなくなった。
「好き」がわからないことがこんなに苦痛なことだとは知らなかった。
生きてる意味が分からなくなった。こんなはずじゃなかったのに。私の人生もっとよかったはずなのに。あぁ、なんでこんなことになってしまったんだろう。
私には、同棲している彼氏がいる。
彼氏は私の病気を理解してくれていて、なにもしてない私を見ても一切責めなかった。だが、それがまた私を苦しめた。
ずっと家にいるのに、なんで家事の一つでもしてやれないんだろう。家事が出来なくても、せめて仕事から帰ってくる彼氏を出迎えるくらいはしたい。でもベットから起き上がることが出来ない。彼氏が帰ってきて、彼氏が二人分ののご飯を作って、洗濯してくれる。何もできないばかりか、介護みたいなことを私は仕事から帰ってきた彼氏にさせている。
どうしようもない虚無感と罪悪感に襲われた。
責められてもないのに、私は私を責めることをやめられなかった。医者は「今は心を休める時期だから、好きなことをして過ごしてください。」と言う。私はその「好きなこと」すら思い出せないのに。
そのうち、なんで生きてるんだろうと思い始めた。「こんな生産性のない毎日で、何の役にも立たず、負担ばっかりかけてるのに、なに、のうのうと生きてるの?」自分で自分を責めることを辞められない。
私は今日もベットから起き上がれず、SNSの無意味なショート動画が見漁っていた。別に興味があることを見ていたわけでもない。ただ、無機質に流れてくる動画をスクロールしていただけ。
そのうちの一つの動画に目を引かれた。
編み物をしている動画だった。そういえば、私にも編み物にハマっていた時期があったなと昔を思い出した。
私の母は、器用な人だった。洋服のリメイクや編み物、レース編み、人形作り、裁縫。なんでも手作りする人だった。小さい頃の私は母が作る洋服が嫌いだった。デニムを加工したスカートなんかは、私には似合わないと思っていたし、なにより好みではなかった。小学生に人気のブランド服が欲しくてたまらなかった。母の好みではないから、買ってもらうことは叶わなかったけど。
中学生になり、初めての彼氏が出来た冬。手編みのマフラーを贈りたくて母に教わって編んだ記憶が蘇ってきた。あれは酷い出来だった。鎖編みだけで作ったスカスカのマフラー。でも当時の彼氏は喜んでくれたっけ。
そういえば、編み物について書かれていた本が家にあったはず。そう思って思い体を引きずって引き出しの中を漁った。買った当時は何気なしに読んだ一冊だった。今なら違う感想を持つかもしれない。今なら本が読めるかもしれない。ちょっとした希望をもって本を開いた。
「捨てない生活」をテーマにしたコミックエッセイ。その中にあった。これだ。アクリルたわし。買った当時読んだ時には興味がなくてスルーしてたところだ。でも今の私には一筋の光に見えた。
100均で道具も揃えれる、使うのはアクリル毛糸と鍵編み棒だけ。そしてなにより惹かれたのは、失敗してもいいということ。だってたわしだもん。どうせ使って汚れて捨てるのだ。完璧を目指さなくていい。それに何かを生み出せるということはこの生産性がなくて辛い日々を少しでも忘れさせてくれるような気がした。
私は久しぶりに通院以外で外に出た。化粧する余裕なんてない。Tシャツにジーンズ、髪は無造作に一つにくくっただけ。美容部員として百貨店に立っていたころの私とは別人だ。それでも日の当たる時間に外に出られた。その事実だけで嬉しくなった。
近所の100均に行き、鍵編み棒とアクリル毛糸を手に入れた。動画を見ながら編んでみた。出来栄えは最悪だった。笑えるくらい不格好なアクリルたわしが出来上がった。私は久しぶりに声を出して笑った。
そこから狂ったようにアクリルたわしを編み続けた。何個あっても困らない。どうせ掃除に使えばいいのだから。編んでる時間は無心になれた。自分を責めることすら忘れていた。なにより嬉しかったのは、自分が何かを生み出せているということを感じれることだった。
生産性がないと責め続けていた私が、なにかを生み出している。
それも役に立つものを生み出せている。それがなにより嬉しかった。
毛糸がなくなるとすぐにまた買いに行った。そして編み続けた。大量のアクリル毛糸が出来ていく。その山を見ていると私は生きていてもいいんだ。生産性のある人間なんだと思えた。不格好だったアクリルたわしが綺麗な形になっていく。また嬉しくなって毛糸を買いに行く。そうしていると外に出る時間が増えた。ベットの上から出られる時間が増えた。私はアクリルたわしを編むことが好きなんだと思えるようになった。「好き」を取り戻せたことは私の心の回復に繋がった。
少しずつ症状が軽くなっていった。まだ働ける状態ではない。心療内科の先生の許可も下りていない。でも私は私を責めなくなった。「好き」の力はこんなにすごいことなんだと初めて実感した。
休んでいるのが怖くなくなった。だって私には生産性がある。こんなにもカラフルな毛糸の山を作り上げることが出来る。治療に専念してもいいんじゃないか。そのあとのことは、その時考えよう。
あぁ、なんでこうなっちゃったんだろう。
でも今はそんな私が嫌いじゃない。