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【雑記】感覚的なものの言語化

現在、自転車の練習中である娘。まだうまくこげないため、練習に付き合ってみるものの、これが意外と難しい。


まず第一に、私自身がどうやって乗れるようになったのか覚えていない=乗れていないときの記憶がない。

そして、普段自転車を乗るのに、あえて意識することはしない。頭の位置はどこ、腕はどのように、足の置く場所はここで、といった具合に。「当たり前」にできてしまうことに対して、意識せずとも体(=感覚)が自然と覚えてしまっているのだ。

さらに幼児はマルチタスクが苦手であるため、ペダルをこぐ、前を向く、バランスを取る、ブレーキを握るといった各操作を瞬時の判断で行うことは至難の業である。どうしてできないのだろうかと思ってしまうのは、「誰でもできる」「できて当然」といった思いが少なからずあるからではなかろうか。

ただ思い出してみてほしい。大人になって運転免許を取得するため教習所に通った日のことを。最初からいきなりスムーズに車の操作ができたであろうか。エンストしたり、急発進・急ブレーキなど、上手に運転できていなかったのが大半ではなかろうか。


ここで、タイトルに戻ってみる。「感覚的なものの言語化」。つまり、普段何気なく行っている(自然とできてしまっている)行為に対して、他者に伝える=言語化することは、非常にハードルがあがる。偉大な選手が偉大な監督になるとは限らないのと同義に、感覚的な事象を言語化できるための能力が必要となるのではなかろうか。

もちろん、得意な人もいるだろうし、訓練によって上達することもあるだろう。そして、他者に説明できるということは、自身がその事象に対して理解していることを意味する。

こうした訓練を行うのに適した素材が、現代アートには溢れている。感覚的なものを言語化する。まさに、現代を生きる大人にとって、貴重なスパイスとなる気がするのである。


「明日も天気がよくて元気だったら、自転車の練習しようね!」とやる気に満ち溢れる娘とはうらはらに、体力的な限界をひしひしと感じている今日この頃。


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