見出し画像

【書籍】シュルレアリスムとは何か

ずばり、「シュルレアリスムとは何か」。「ファウンド・フォト」につながるであろう、「ファウンド・オブジェ」や「コラージュ」のあたりが垣間見れればと思い手にとった。

**********************************

日本語ではシュルレアリスムを「超現実主義」と訳されており、『新明解国語辞典』には、以下のように書かれているそうだ。

「シュール」とは「シュールレアリスム」の略で、「写実的な表現を否定し、作者の主観による自由な表象を超現実的に描こうとする芸術上の方針。超現実主義」

巌谷氏はまずこの定義を否定する。

①「写実的な表現を否定」
ダリが描いた《パン籠》(1926)や、マグリッドが描いたリンゴ(《傍聴室》(1953))などのように、シュルレアリストたちはむしろ被写体を写実的に描いている。

②「作者の主観による自由な表象を描く」
主観はフランス語「シュジェ(sujet)= 主体」から派生する「シュブジェクティフ(subjectif)」にあたる概念であるはず。実際のところ、シュルレアリスムは「オブジェ(objet)= 客体」「オブジェクティフ(objectif = 客観)」の方を表に出した思想である。

主観というものをできるだけ排して、客観にいたろうとしたのがシュルレアリスムである

これは、我々が何気なく使っている「シュール」との意味とは真逆である。「シュールレアリスム」「シュール・レアリスム」「シュールレアリズム」などの表記はすべて間違い!「シュルレアリスム(surréalisme)」が正しい。

レアリスム、リアリズムといった現実を精巧に表現する+シュールがくっついて、現実を超越し、現実ではない世界へと行ってしまう=超現実→それを描くのが「シュール」、すなわち現実から浮世離れした幻想的な世界を主観的に描く、と一般的には知られているが、そうではない。

正しく切るのなら「シュルレエル(surréel)」+「イスム」。シュルレエルは「超現実」と訳され、「この超現実に拠ってたつ物の考えかた、あるいはその実践こそが、シュルレアリスム」なのである。

なお、「シュル(sur)」は邦訳すると「超」=超えるイメージを持たれるが、ほかにも「過剰」や「強度」といったニュアンスの接頭語でもある。これは、滝口修造が書いていた、『「超現実主義」の「超」は、たとえば「超スピード」に近い』。

なるほど、これはわかりやすい。「ものすごいスピード」なら、「ものすごい現実主義」とみてとれる。現代的であれば「超カワイイ」の「超」だ。

ここまでわずか10ページ程度にもかかわらず、かなり重点的かつ凝縮されている気がする。

**********************************

シュルレアリスムはフランスの詩人、文学者アンドレ・ブルトン(André Breton, 1896-1966)が、1924年に『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』によって始まった芸術運動である。前半の宣言部、後半の自動記述による物語集『溶ける魚』が収録されている。

ここでいう「自動記述」とは、心理学では「自動書記」にあたるもので、書く内容を事前になにも用意していないこと、筆の勢いにまかせて早く書いていくことが重要視されている。ブルトンが「自動記述」の実験を始めたのは1919年。WW1終戦の翌年である。この実験結果が、1920年の『磁場』という雑誌にまとめられた。

現実と「超現実」は連続しており、あるいは現実のうちに「超現実」が内在しており、それが時によって露呈してくる。しかも、それは主観的にこちらがでっちあげる幻想などではなく、客観的に、オブジェとして配列されるものである。

ドイツ出身の画家マックス・エルンスト(Max Ernst, 1891-1976)は同年(1919年)以降、コラージュやフロッタージュなどの手法を発見したと『絵画の彼岸』(1937年)で述べている。

なお、ファイン・アート史上においてピカソが制作した《藤張りの椅子のある静物》(1912)が最初のコラージュ作品だといわれている。ただし、キュビストとシュルレアリストとでは、コラージュの意味合いが異なるため、そういう意味ではエルンストはシュルレアリスム的なコラージュを「発見」したのであろう。

シュルレアリスム美術は主に、ブルトンをはじめとする「自動デッサン」の潮流と、エルンストをはじめとする「デペイズマン」の潮流に分枝していく。

「デペイズマン」とは、邦訳では「転置」に近く、「本来の環境から別のところへ移すこと、置きかえること、本来あるべき場所にないものを出逢わせて異和を生じさせること」を意味する。

**********************************

次なるキーワードは「メルヘン」。日本語では「おとぎばなし」といわれるが、一般的に思い浮かべる「童話」とは一線を画しているとする。

「子ども」という概念はフィリップ・アリエスの『<子ども>の誕生』にまとめられており、18世紀になって始まったものだという。それまでは、我々が思う「子ども」とは「小さな人間」、すなわち大人の小型であり、大人と子どもとの境界は17世紀以前には存在していなかったそうだ。

シュルレアリスムでは「妖精的な」世界や「ファンタステックな」世界が混じり合い、現代文学などでは「ヴィジョネール(幻想)」という概念も表れてきているという。

なお、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』の結語は「生は別のところにある」となっているが、「別のところ」とは別世界やフェアリーランド、ユートピアなどではなく、まさにこの現実と連続している場所であることを主張している。

シュルレアリスムとは、いわゆるメルヘンチックでもファンタスティックでもない、現実のなかにフェーリックな感覚をめざめさせようとする考えかたである。

**********************************

最後のキーワードは「ユートピア」。ユートピアといえば、日本人は「楽園、桃源郷」として用いられいるが、英語では「ばかげた妄想的な話し、実現不可能な計画」という悪い意味合いでも用いられるそうだ。あくまで、ユートピアとは「この世に存在しない、理想的な場所や国」などを指す。元来は「組織され管理された国や都市の理想型」の意味である。この意味から私が真っ先に思い浮かんだのは社会主義国家である。

ユートピアとは造語で、イギリスの法律家・宗教家トーマス・モアが1516年に出版した『ユートピア』に由来する。

どの時代においても、ユートピアに共通するものとしては、「歴史を否定する」ところにあるという。またユートピアには時間がない≒歴史が少なくなってしまう。それもそのはず、理想的な社会が出来上がってしまえば、そこに葛藤や歪みは起こらなくなってしまうからである。そして、何事も規則的な環境となる。

その結果、ユートピアには時間のない国となるため、ユートピア=この世に存在しない空間=時間も消去してしまう世界、となる。

さらに規律的な社会には「個性」は存在しなくなり、人間が機能に還元されていく。それぞれに決められた役割を機能的に行う、ただそれだけ。

そして、重要なこととして、ユートピアは照明的に「明るい」という点が挙げられる。そのほかには、臭いがない、質素、衛生的、規律などがある。そして、ユートピアを端的に表す象徴的なものが、規則的に動く「時計」なのだ。さらにユートピアを突き詰めていくと、とてつもなく悪に満ちた社会にもなり得る可能性を秘めているのだ。

なぜだろう、ここまで読み進めれば進めるほど、日本とは「ユートピア」なのではなかろうか、という気しかしてならない。

また、ユートピアの対の概念としては「迷路」=ラビリントス(ラビリンス)が挙げられるという。規律的なユートピアに反し、ラビリントスは無自覚に広がった、反規律的な国となる。

シュルレアリストたちはこうした規律的なユートピアとは真逆な性質であった。ただし、彼らには「別のところ」という連続する概念が存在していた。ここからシュルレアリスト=ユートピア的な捉え方がきている、のかもしれないとみている。

**********************************

講義の内容をおこした書籍とのことだったが、リズミカルで読むには非常に面白い一冊だった。シュルレアリスムの入門書としては最適で、これを読んでからダリやマグリッドの作品をみると、その意図がみえてくる、かもしれない。

が、、肝心な部分がうっすら過ぎたので、もう少し深掘りしないと...。

よろしければサポートお願いします!今後の制作活動費として利用させていただきます。