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【雑記】AI画像

集英社『週刊プレイボーイ』発行のAIによるデジタル写真集「AIグラビアアイドル・さつきあい」が販売終了となった記事を目にした。

学習素材、権利、法整備などなど、課題はまだ山積しているであろうが、ここ最近の「写真」にたいする私なりの考えを整理するためにも、一度書いておこうと思う。


①なぜAIによって生成されるイメージはリアリティを求めるのか
AIだからこそ生成可能な画像(指がバグっているのは、ある種の個性?)が求められているのではなく、あくまで切望されているのはより「リアル=実在しそうな人物」のイメージ。

そして、圧倒的に目にするのは「女性」像が大半を占める。


②それとは逆に、実在する人物は加工を行うことで、非リアルな様相を求めている
「リアル」なイメージとは何か?何をもってして「リアル」といえるのかを考えなければならない。そもそも、写真として表象するイメージは「作られたイメージ」であるため、実世界とは異なっている。

なお、Z世代では「顔を隠す」傾向にあるとの記事も見受けられた。


AIとリアルな人物とでは、求めるべきイメージの逆転現象が生じているが、共通するのは「美的」感覚。いうなれば、カワイイ、キレイなどといった承認欲求を満たすようなイメージを求めているような気がしてならない。

となると、まずはこのあたりから読みはじめようかと思い、手に入れてみた。


AI画像で問題となってくるのは、やはり教師画像として用いられるデータであろう。

昔は「アイコラ」が流行ったように、ある特定の人物の画像を教師データとして学習させれば、欲するイメージの画像が生成可能となってしまう。つまり、特定の人物の画像データに価値が与えられることとなる。当然ながら、悪用するケースも考えられ得るであろう。

もはや、写真における「記録性」や「証明」としての役割は意味をなさなくなる。何が真実でなにが嘘なのか、画像(イメージ)からでは判別不可能な状態に陥る。


コンテクストとして学ぶべきは、1970年代のスーパーリアリズム(ハイパーリアリズム、フォトリアリズム)のコンセプトであろうか。


こうした内容を踏まえたうえで、ではどのような作品をつくろうかというのが、ここ最近のモヤモヤ感であったりもする。

どうせ数年もすれば、わざわざ「AI画像」といわれることもなくなるように、一般的なものとして扱われる気しかしない。その一方で、現代の混沌とした黎明期(過渡期)ほど面白いものはない、とも思ってはいる。

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