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【偉大な写真家シリーズ】ウジェーヌ・アジェ

過去の偉大な写真家の軌跡をメモのために綴る【偉大な写真家シリーズ】。最初に取り上げるのはウジェーヌ・アジェ。

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幼くして相次いで両親を亡くしたアジェは、叔父に引き取られて幼少期を過ごしていた。教育熱心であった叔父はアジェを司祭職に就かせようと神学校へ進学させたが、アジェにその志しはなく、叔父の願いも虚しく学校を早々に中退してしまった。

その後、アジェは商船で給仕として働いていた。やがて役者を目指すことになるが、もしかしたら船に同乗していたたび芸人たちをみているうちに、いつしか自分もという思いが芽生えたからなのかもしれない。

一浪ののち、アジェはパリの演劇学校に合格を果たしたことで、アジェには明るい未来が訪れるはずであった。しかし、時代がアジェを翻弄する。兵役として召集されたアジェは兵役との両立が困難となり、演劇学校の中退を余儀なくされた。

その後アジェは、地方を回る旅役者としての職に就く。そこでアジェは運命的な出会いを果たす。彼女の名はヴァランティーヌ。彼女もまた、俳優を目指して同劇団に加入してきたのだ。後に二人は夫婦となって生涯を共にすることとなる。

役者の仕事と愛すべき伴侶を得たアジェは、人生のピークを迎えていた。しかし、登った先には、下り坂が待ち受けているのが世の常である。ヴァランティーヌとは正反対に、役者として一向に目が出なかったアジェは、役者を始めてから20年を迎えたころ、解雇通告が言い渡されてしまう。

途方に暮れ、パリへと戻ったアジェは一転して大胆な行動をとる。「なにかを始めるのに、年齢なんて関係ないさ。そうだ、私は画家になろう!」とでも思ったのであろうか。このとき、アジェは41歳を迎えていた。

アジェはこれまで絵を学んできた訳でもなければ、売れない画家たちはこぞって商業写真家へと転職し、ごく一部の売れっ子画家でなければ生計を立てることすら厳しい、画家にとって冬の時代を迎えていたのである。

しかもアジェが取り組んだのはこともあろうに「風景画」であった。すでにこのときには画家たちが風景を描くよりも、コダクロームの登場によって、撮影された写真の方が安価で精密な描写となっていたにも関わらず、なぜ風景画家に憧れたのであろうか。

意気揚々と風景画家としてのキャリアをスタートさせたアジェではあったが、ほどなくして画家の道を断念する。とはいえ、細々と風景画は書いていたそうだ。

幻であったかのような画家の道ではあるが、夢に対して真っ直ぐに生きてきたアジェがそう簡単に諦めるはずもなかった。こともあろうに、アパートのドアノブに看板を掲げて商売を始めたのである。その看板には「芸術家のための資料」と書かれていた。

その名の通り、画家たちが描く資料のためにと、18x24センチのガラス板と木箱を抱えては、日常風景を撮影し始めたのである。しかも画家たちとの交流が持てる特典付き。画家たちが描くための資料を求めていたことは画家を目指したからこそ得ていた商材であったのであろう。こうしてアジェは写真師として生活を送ることになった。

とはいえ、売れっ子の写真家のようにひっきりなしに仕事が舞い込んでくる訳ではなかった。そこでアジェは、仕事の延長としてパリの街並みを写真に収め始める。というのは表向きの顔で、本心では芸術家としての尊厳を保っていたかったのかもしれない。

建物、市民、サーカス、看板などなど。ありふれた日常の風景を丹念に撮影して回り、こうして撮影した写真を、図書館などが資料として買い取ってくれることで、細々とした生活を送っていた。

41歳から取り始めた写真はパリ市内をほぼ網羅し、以降30年間で撮影した写真はおおよそ8000枚にものぼった。街中で大きな木箱を担ぎながら歩き回り、撮影時には暗幕を被っていた中年の男性。現代であれば確実にお縄であろう。

晩年、アジェの写真が突如として注目されることとなる。通りの向かいでスタジオを開いていたマン・レイは、アジェの写真からシュルレアリスムの要素を見出した。

さらには当時マン・レイの助手を務めていたベレニス・アボットによって、アジェの写真は一躍世界中へと知れ渡ることとなった。アボットはアジェの死後、ニューヨークでギャラリーを営んでいたギャラリスト、ジュリアン・レヴィの助けを借りて、散財の危機に瀕していたアジェのガラス乾板を買取ったことで、アジェの写真はたちまちアメリカ全土に知れ渡ることとなった。

今でこそ写真表現の先駆者と位置付けられているアジェではあるが、その功績が認められたのは、アジェがこの世を去ってからのことである。

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それからおおよそ100年後、日本の写真家大島洋はアジェの写真集をガイドブック代わりとして、アジェの眼差しを追憶している。

そこで大島氏が目にしたのは、アジェが生きた当時の「古き良き時代の街並み」であった。アジェが撮影した当時の街並みは、今もなお現存してしていたのである。

つまり「古き良き時代の街並み」とは、アジェに写真を語るうえで作られたイメージであったのである。アジェは自身の写真を「記録」と称していたように、あくまで資料として記録していただけにすぎない。

また、晩年シュルレアリスム関連の書籍にアジェの写真を掲載する際、アジェはクレジット(名前)の記載を拒んだという。もしかしたら写真は芸術ではない、という思いがあったからなのかもしれない。アジェのなかでは芸術家=画家という思いがあってのことであろうか。

そして、アジェの功績を一躍不動なものへと押し上げたのは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の第3代写真部門長を務めていた、ジョン・シャーカフスキーである。彼によって、アジェの写真は近代写真の始まりと位置付けられたことで、アジェの「芸術性」が認められたのである。

写真史とは誰かによって作られた、さらにいうとMoMAによって作られた歴史なのである。

誰が評価し、どこで発表するか。趣味や仕事(商業的)の写真であれば構わないが、アート分野で写真を行うには戦略的な行動が求められる。

いつか誰かが評価してくれる、可能性はゼロとはいわないが、その可能性は極めて低い。

ソール・ライターやヴィヴィアン・マイヤーのように、死後その功績が評価される可能性にかけるよりも、どのようにブランディングしていくかが、現代アートには必要でもある。


主要な参考文献

『アジェのインスピレーション ひきつがれる精神』東京都写真美術館
https://topmuseum.jp/upload/2/2977/atget_pressrelease_1130.pdf

大島洋『アジェのパリ』みすず書房、2016年

Jean Claude Gautrand “Eugène Atget. Paris” TASCHEN, 2016.

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