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【考察】真善美

先日の勉強会にて、話題にあがった「真善美」。

それぞれ、論理学、倫理学、美学。概念的哲学と実践的哲学、および、美術が、かつての美術作品には存在していたが、芸術(現代アート)にはそれらが抜け落ちているよね、というお話し。

たとえば、システィーナ礼拝堂の天井には、ミケランジェロによって描かれた天井画が現存する。

時はルネサンス期。教会が絶対的な権力を持ち、それに異議を唱えて起こったのが、ルターの宗教改革(1517年)。

近代絵画の父と称され、印象派の代表画家として有名なポール・セザンヌが台頭するよりも前の時代においては、美術作品の多くが宗教的なものを主題とした作品が多くみられる。

コロナによって美術館のあり方も大きく変わったが、かつてはブロックバスター展とあれば、多くの人々がその作品を一目見ようと長蛇の列をなしていたほどである。

現在においても世間一般的にはアート=美術の認識が色濃くあり、フェルメール展やメトロポリタン美術館展など、絶大な人気を誇っている。

今なお美術作品に多くの人々を魅了する理由のひとつとして、有名な作品であることが挙げられる。

そして何より、こうした作品には「具体的な何か」が描かれており、こうした作品を観た鑑賞者は「それが何かがわかる」点が非常に大きいのではないかと思う。

かつてフィレンツェのウフィツィ美術館を訪れたことがあり、そこには名だたる美術史の作品-ボッティチェリ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、などなど-が膨大に飾られてあった。

確かに有名な美術作品を観るとアウラがあり、おぉーっとは思うのだが、これは何より、知識としてこうした絵画を「知っている」ことが非常に大きい。

そこにはある種の「美」が備わっているのであろう。確かに歴史的価値があり、美しさが備わっているのではあるが、そこで思考は止まってしまう。


一方で、マルセル・デュシャンがアンデパンダン展に出展したものの展示を取り下げられた≪泉≫(1917年)が、現代アート(芸術)の始まりとされている。

かつての美術=絵画(彫刻も含む)には、画家の明確な主題が描かれていたのに対して、デュシャンが提示したのは男性用の小便器を台座の上におき、「R.MUTT 1917」と署名が書かれているのみである。

ありふれたものであったとしても、それが作品として提示されたとき、それが「アート(芸術)」となる。

このとき起こったのは「価値」の転換である。誰しもが思い描く美しいものこそがアート(美術)であり、歴史的に認められてきた作品にこそ美的価値が備わっていたのに対して、芸術においての価値は美的や歴史的価値ではなく、「アートであること」が前提としてある。

だからこそ、アート(芸術)においては「美」である必要もなければ、論理的、倫理的なモチーフである必要もない。美術から芸術へと移行したとき、すでに「真善美」は失われていたのである。

芸術が提示するのは「思考の具現化」である。アーティストの思考を作品として提示されているため、かつての美術のように観ただけでは何を提示されているのかが「分からない」作品が多い。

ただし、なんでもかんでもアートといえばよいという風潮は否めないが、決してそんなことはない。

たとえば、商業写真家(カメラマン)がライカを手に取り、スナップを撮って展示する。仕事ではない写真を「作品」として提示するのをアートワークだというケースが散見されるが、これはアートではなくただのアマチュア=趣味の一環でしかない。

その作品がアートであるためには、日々更新されていくアートワールドのルールに則している必要がある。つまり、アートとしての条件を満たしているかどうかが、本質的には問われているのである。

そのルールを作っているのは、美術館やギャラリスト、コレクターといった、アートワールドの住人たちであり、なかでも現在最も影響力があるのはArtReviewが毎年提示している「POWER100」であろう。

こうした常にアップデートされ続けるルールに、提示される作品が則しているかどうかが現代アートにおいては重要であり、すべての作品がアートではなく、アートとして認められたものが「アートになる」のである。


そしてまた、アート作品は資本主義社会における資産のひとつとしても機能しており、必ずしも優れた作品が高額である訳ではない。なんでこの作品が、というものが非常に多いが、アートにおける「価値」は「美的価値」には留まらず、「需要と供給のバランス」と「稀少性」、つまり資本価値の側面が非常に大きい。

ここに、現代アートの難解さが生じる。アート的な価値、そしてなにが提示されているのかが、作品を鑑賞しただけでは「わからない」のである。

かつての美術であれば受動的、つまり観ればそれが何かが「わかる」作品が多くを占めていた。しかし、芸術においては能動的、つまり自らが考え、調べたりといった、鑑賞者側にもそれが何か「知ろうとする」ことが求められている。だからこそ、その答えはひとつではなく、ましてや万人が納得できるような「正解」はそこには存在しない。


インターネットが日常生活のインフラとなっている現代において、不明なことがあればすぐに検索し、最短距離で「正解」が得られてしまう。われわれは知らず知らずのうちに、ものごとのすべてに「正解」を求めてしまっているのである。

しかし、明確な正解のないアートは、正解を獲得することに慣れてしまったわれわれにおいて、非常にとっつきにくい。

科学技術の進歩によって、人々の生活はより豊かに、より便利な世の中へと向かっている。そしてこの流れは科学が誕生して以降、止まることはない。

物質的な豊かさの時代はとうに過ぎ去り、現代において求められているのは「心理的な豊かさ」ではなかろうか。何かを食べて「美味しい」と思えたり、音楽を聴いて癒やされたり、といった、何気ないちょっとしたことこそが、現代社会において「豊かさ」の象徴なのかもしれない。

こうした豊かに「気付けること」のツールのひとつとして、現代アートとしての役割が担われているのだと思う。淡々と過ぎゆく日常生活において、こうしたちょっとした「豊かさ」に気付けること、すなわち自ら考え、感じる能動的な行為の練習に、アートは的しているのだと思っている。


これまでの人生観や倫理観から逸脱したものの見方はできるはずもない。しかし、違った見方や見解をすることによって、新たな「気付き」となり、思考の、しいては人生の豊かさへとつながっていくかもしれない。

〇〇は××であるべきだ、と決めつけずに、オープンマインドで世界と能動的に触れ合うことが、人生を豊かにしてくれると私は信じている。そして、そのきっかけを与えるスパイスなものとして「アート」があり、アート作品を制作し続けているのは、こうした見方もできるよということを提示することで、鑑賞者がなにかを感じ、少しでも人生の刺激になってくれたらいいな、という思いがあるからである。

アーティストとして売れたい!という思いが全くないというとウソにはなるが、アートで生計を立てることよりも、アートとつながり、続けて行きたいという思いの方がどちらかというと強い。制作し続けることこそが、私にとっての人生における「豊かさ」のひとつなのだと思っているからこそ、今までも、そしてこれからも制作は続けて行くのだと思う。

そして、では現代において「真善美」にとって変わったものとは、何なのであろうか。それを考える上で、自身にとって「アート」とはどのようなものを指すのかということが見えてくれば、その答えに近付けるのかもしれない。

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