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居場所とか時間とか

人の居場所なんてね、誰かの胸の中にしかないのよ

今年も5月25日がやってきては過ぎて行った。この日はあおいの誕生日。あおいは私の友人でもないし、なんなら実在する人間でもない。

あおいは私が今までで最もよく読んだ本の主人公の名前。
私をフィレンツェの大聖堂(=ドゥオモ)まで呼び寄せた人。
私の好きな本と、その主人公を追体験した話。

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20年以上前に「冷静と情熱のあいだ」いうラブストーリー本が発売され、ベストセラーとなった。女性側の視点を江國香織、男性側の視点を辻仁成が描くことで2冊で1冊、まるで合わせ鏡のような構成の本。

人が羨むような生活をしているのに、自分の居場所と思えない主人公、あおい。昔の恋人が忘れられない彼女の心の中の時は止まっているのに、彼女を取り巻く時はどんどん過ぎていく。あおいが忘れられない元恋人、順正は絵画の修復士という「唯一時を巻き戻せる仕事」に就いていて、彼もまた先へ進もうともがいている。

2人が付き合ってる当時、ある約束をした。あおいの30歳の誕生日に一緒にフィレンツェのドゥオモに登ろう、と。今を無理に生きるのではなく、過去と向き合おうと決意した2人は相手が覚えているかも分からないのにフィレンツェのドゥオモへ向かう。

と簡単にあらすじを書いてみたが、この本の発売当時は中学生だった私はページを捲るごとに漂う大人の恋愛(のように思った)の香りにクラクラした。ミラノやフィレンツェという地名や10年越しの約束とか。でも一番心に残ったのはあおいの古い友人フェデリカの一言。

人の居場所なんてね、誰かの胸の中にしかないのよ

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この本に出会った頃、大きな引越をしたばかりの私はその言葉にとても惹かれた。言葉は通じるも、知り合いひとりいない土地での生活が始まり、別れていても自分の居場所は海をへだてた遠くにいる友人たちの胸の中にある、そうであってほしい、と強くつよく思った。
だから私のこと忘れないでって引っ越したばかりの頃は友人と毎週末チャットやメールをして、すごく努力をした。

どういう一週間だったか、誰と誰が付き合ったのか別れたのか。「会いたいね」と毎回〆られるチャット。最初は毎週のようにしていたチャットが、まずは1度に話す量が、そして次は頻度が、減っていった。

話したいのに、話すことを探す時間が増えていった。話すことが尽きてしまうのが怖くて、用もないのに「ちょっと用があってもう行かなきゃ」と早く切り上げたりもした。

当然だけど、人と離れると今までと同じ距離間で付き合っていくのは本当に難しい。ずっと忘れないと言ったり言われたり、自分の居場所をどれだけ必死にマークしても風化してしまうんだなって。自分の内側は時が止まってるのに、自分の外側は時が流れるのをやめてくれない。

そんな事情もあって、少しの憧れとともに自分をあおいに投影していた。彼女も10代の頃に引っ越しをしていて、居場所というものを見つけたり失ったりしてたから。そして彼女は最後、自分の居場所を相手の中に見つける。

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それから何回かの引っ越しと相当の月日が流れ、気づくと私もあおいと同じ年齢にさしかかろうとしていた。ちょっと考えて、せっかくあおいと同じ年齢になるし、フィレンツェに行きたいと思った。彼女が自分の居場所を見つけてあげられたフィレンツェに。

中学生の頃から何度も読み返した本に出てくる場所に行って、主人公のマネをしたいなんていうのは、笑い話になるだろうか。
でもずっと読んできた本の主人公がやったこと、私もやってみたい。彼女が見た風景を私も見てみたい。あおいを通してあの時の苦しかった自分に大丈夫だよと言ってあげられるかな、と思った。

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フィレンツェの街は、条例により建物を保存し続けなけばならない。だから西暦1400年頃から同じ場所に鎮座するサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は600年ほど外見は変わっていない。なんなら周りの風景も変わっていない。ほんとにこの街だけすっぽり、時の狭間に落ちてしまったよう。
変わるのは街にやってくる人達の顔だけ。

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ドゥオモの内部見学は事前予約制。ずっと憧れていたドゥオモだもの、リサーチはかかさない。旅行の数ヶ月前に事前予約を完了させて、準備は万端。

そして予約当日、朝8時半に大聖堂の入り口にたどり着く。
事前予約をせずスタンバイで並んでいる他の観光客を横目に、予約者専用のレーンへ。待ち時間ほぼゼロでサクサク進む。受付にいるおじさんに"Buon Giorno"と気持ちよく挨拶をして、聖堂の中ヘ足を踏み入れる。

大理石でできた床。700年もここにあるんだという事実に畏怖の念を感じる。これから446段を登って地上90メートルにあるクーポラ(ドームてっぺんにある屋上)まで行くのだ。本の中では2人が10年越しの約束を叶えた、あのクーポラへ。

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400段強を登るのには30分もかからない。脚がガクガクになるんじゃないかと不安に思っていたけど、段差はあまり大きくなく、小柄な日本人でも問題なく登っていける。

教会の内部や裏側を見ながらどんどん上がっていくのは、全く苦痛ではない。ところどころにある窓から見える街の屋根がどんどん小さくなっていく。


そして最後の10段ほど。
はしごのように垂直に伸びている階段を登る。
そして視界が広がる。


地上90メートルは思ったより靄があって、思ったほど見通せない。それでも見渡す限りに続く赤茶色の屋根。普段の生活では見慣れているオフィスビルや商業施設などが全くない。私、どの時代にいるんだっけ?
せっかくなので座り込んで、クーポラを味わい尽くす。

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どこかでカンカンと釘を打つ音と、風が通り過ぎるひゅうって音。たまに聞こえるバイクのエンジン音。地上からたった90メートルなのになんて静かなんだろう。昔の世の中はこれぐらい静かだったのかな。

陽が高くになるにつれて、刻一刻と晴れていく靄、鮮やかになっていく空の色。初秋とはいえ、秋のイタリアの日差しはまだ強い。顔が焼けるな、思いながら、景色を眺める。

きっとこの大聖堂から見える景色、聞こえる音というのはきっと建設当時から変わってないんだろうな。だってここが、この大聖堂の居場所だから。ずっと変わらない居場所。

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人は愚かなもので、失われていくものに対して強く想いを持ってしまうもの。愛情とか友情とか。自分の居場所が誰かの胸に一時の間あったとしても、それがずっと続くとは限らないし、だから居場所を失いそうになった時に過度な努力をしがち。

だけど本当はそんなことしなくていい。
本当にその胸の中に居場所がある人は、どれだけ時間が経ったって居場所があるものだと思うから。

建物じゃないんだから、居場所は自分が存在する場所に固執する必要なんてないし、誰かの胸の中に居場所を保ち続けられるように努力する必要もない。人は移ろって行く。その中で居場所なんて勝手に作られていくんだろう。
会っていなくても、話していなくても、意味のある出会いだったならば、居場所は失われない。10何年かけてたどり着いた私の月並みな結論。

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そして少し遅くなったけど誕生日おめでとう、あおい。

居場所を見つけられてよかったね。

そしてこの話を創り上げた江國さん、辻さん、本当にありがとう。

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ちなみに映画化もされているので興味のある方にはyoutubeの予告を。フィレンツェやミラノの街並み、エンヤの音楽、魅力的な俳優陣。1㍉でも興味が湧いたら、見てほしい。


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