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幼馴染

 私には幼馴染がいる。保育園の年長の時に今の家に引っ越したのだが、彼女の家は私の家の三軒隣だった。友だちになってもう12年くらい経つ。登下校はもちろん、習い事のそろばんも一緒。休みの日には、午前9時を過ぎたらインターホンを鳴らしてもいいよと言われていたので、9時になった瞬間玄関を飛び出して彼女の家に走るのがお決まりだった。お互いの家に泊まることもよくあった。友だちというより、家族のような存在である。
(あ、私のnote、教えてたっけな。もしこれを読んでいたら、まあこの前の手紙の返事とでも思ってください。)

 小学生の時、私にとって幼馴染はよきライバルだった。毎学期の終業式の帰り道は、お互いの通知表を見せ合って◎(←これは、よくできました。◎が一番良くて、◯、△と続く)の個数を競い合ったりした。いつも彼女の方がひとつかふたつ私より多かった。唯一体育の成績だけは私の方が良かったけれど、彼女は水泳が得意だったので、体育の授業が水泳だと◎の個数の差はさらにもうふたつくらい開いた。私は昔から負けず嫌いな性格だから毎回悔しい思いをしていたけど、でも同時に彼女は賢くて頑張り屋で、私よりずっと努力しているのを知っていたから、成績が自分より良くて当然と思うところもあった。私はそうやって悔しさを処理していたのだろう。彼女は常に私の目標であり、越えたいと思う存在であり、でも同時に越えられない存在だとも思っていた。私より一歩先を行く、そんな存在で、私は彼女の背中を追いかけていた。私が彼女より先を行けたのは、運動会の徒競走くらいだった。

 小5の秋、私はアメリカに引っ越すことになった。小学校入学以来、初めて隣に幼馴染がいない環境はとても不思議だった。それまで、私は褒められることはあっても「私は○○ちゃん(幼馴染のこと)の次」と思って(自分でそう思っていただけで、本当に言われたことは一度もないのだが)、しかもそれを当たり前と思って過ごしていた。しかし私は"ひとり"になると、人から褒められ「すごいね」と言われる存在だったようだ。それは素直にうれしかったけれど、私の中にはいつも彼女がいたから、「私がすごいなら、〇〇ちゃんはもっとすごい」と思っていたと、今振り返ればそう感じる。その時にはもう悔しいだとか嫉妬だとか、そういう感情は少しもなくて、これが私の当たり前になっていた。私は彼女を追いかけて、前へ前へ進む。いつか追いつきたい、と思っていた。

 私が日本にまた戻ったのは中3の夏。そろそろ高校受験の勉強も本格的に始まろうとするころに帰ってきた。幼馴染は上から数えて何番というような公立高校を目指していて、私は帰国生受験ができる私立高校を目指していた。受験のストレスからか、あと少しで学校というところでいつも「もう帰りたい、学校に行きたくない」と嘆く彼女に、私は「でもあとちょっとで学校着くよ」「今日は水曜日だから早く帰れるよ」と声をかけることしかできなかった。私は彼女の努力を一番近くで見ていた。だから「がんばれ」なんて口が裂けても言えない。言わない。私にできることは、欠席日数が増えないように励ますことくらいだった。いつも自信に満ち溢れ、夢に向かってまっしぐらの彼女が、元気がなくて悲しそうな顔をしているのは不思議な感覚だった。あの時、私が彼女の支えになれていたのかは、今でもわからない。

 幸い、私たちはそれぞれの第一志望の高校に進学した。高校生になって、お互いの環境も周りの人も趣味も興味も全部違くなって、ようやく私は自分と彼女を比較しなくなったと思う。一年生が終わって、二年生も通り過ぎて、三年生は瞬きした間に過ぎ去った。第一志望の大学に合格したことを伝えたら、「自分のことのようにうれしい。」と言ってくれた。「志望校を決めて合格できたのはきゅうの努力の賜物だと思う」と。彼女には、私がどの大学にどう合格したか、なんて関係なかった。決めた目標に向かって努力して、それが報われたこと、それを「おめでとう」と祝ってくれているようだった。彼女は私の努力をずっと見てくれていたと、その時初めて気がついた。私ばかりが彼女を追っているというのは、私の幻想だったようだ。

 もっと早く気づいていたら、変に競ったり対抗心を燃やしたりしなくて済んだのに、とは思う。一番仲いい人が最大のライバルというのは、時には辛いものだったから。でも、気づかなかったから、私は成長できた。私が努力することを苦としないのは、小さい頃から彼女の努力を見てきたからだろう。私もそうなりたい、と追い続けたからだろう。彼女の存在が、今の私をつくったのである。今も私にとっての彼女は変わらない。私の目標であり、一番信頼する人であり、私をずっと応援してくれる人。彼女にとって、私もそんな人になりたいと思う。


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