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無思考でいることは気持ちいい。その危うさと対策。

無思考というとネガティブな印象がある。

それはなぜか。端的にいうとラクな行為であるからだ。ラクでいることは社会的にはあまり歓迎されない傾向にある。汗水垂らして働くことを美徳とする社会の風潮はいまだ一般論として占有している。

そこの是非はいったん置いといて。

「無思考でいる」というのは、自分の頭で考えないことだ。他人の考えを自分に憑依させあたかも自分の考えのように振る舞い行動することもあるし、毎日決まった時間に出勤をするような日々のルーティンというのも、余計な脳汁を使わずに行動できることの範疇だ。その中で刹那的に、部分的に状況に応じてそれなりに頭を使うことで一種の安心感を纏う。

自分の頭で考える知性を携えて生きたいと願う人にとって、無思考でいることは脅威だ。自分もまだまだ修行が足りないが、生き方として知性ある選択をし続けたいと願う。しかしラクに流されやすい性分は誰にでもあり、つい無思考に陥りがちだ。人のラクさ志向はあまり変えようがない。これは人間の性質であり、諦め受け入れている。

ここで無思考でいることの効用を考える。ものは捉えようで、「自分の頭で考えた」戦略に基づいたルーティンは、脅威的な力を発揮する。いわゆる「フロー状態」に入っているようなもの。これで成果を出していてわかりやすいのは、イチローや大谷翔平など、一流のアスリートだ。この人たちは、自分のすべきことを考え抜き、計画に基づいてひたすらコツコツと、毎日を築き上げる。無思考の気持ちよさを戦略と持ち前の武器を掛け合わせ、上手に活用している。

それができれば一番よい。しかし、適切な戦略を立てることや、自分の武器を見出したり磨いていくのは、容易いことではない。

そこで手っ取り早く、「無思考」をうまく人生に活用する方法を考えた。というより、結果的にそうなっているもの。

それは「瞑想」。いわゆるマインドフルネス。もはやこの効果のほどはあらゆるところで提唱されているので真新しさはないのだが、(私は卒業制作のテーマにするほどずっと関心を寄せている分野、懐かしい卒制ムービー…笑↓)

この瞑想を「無思考」のフレームワークで捉えると、「無思考」を意識化する行為といえる。意識的に「無思考」の時間をつくることで、思考の余地を生み出す。無思考の気持ちよさを能動的に受け入れながら、思考に活かす道具だ。

無思考が意識されることで、そうであるもの、そうでないものという境界線が感じられるようになる。

極論、瞑想じゃなくても、ぷよぷよとかゲームでもよい。自分が無思考になって気持ちよさを感じられる行為を意図して生活のなかに組み込むことによって、「自分の頭で考える」キャンバスがつくられるように思う。

このフレームワークを意識し「意図して」行うのが鍵。無意識に無思考の行為をするのとは違う。

瞑想はうまくやれば、サウナで「ととのう」感覚に近いものを得られるのでおすすめします。瞑想のハウツーとかウンチクはいつか書くかも。(いつか書くといって書いた試しがあまりない)

深夜に冷水シャワーと湯に浸かるのを繰り返してたら思いついたので、noteに勢いで綴ってみました。それでは。

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