夕べの祈り
Björkとの出逢いはいつだっただろう。
初めて聴いたBjörkの楽曲はおそらく"Venus as a Boy"で、それは映画『LEON』の挿入歌だったためだ。マチルダという大人びて、苛烈なほど全身に寂しさを滲ませる少女像に驚くほどぴったりくるような、あどけなく、それでいて鮮烈な歌声だった。そのときはBjörkをBjörkとしては認識していなくて、ただ、"He believes in a beauty…"と繰り返すその曲の不思議な魅力に心の端を掴まれていたように思う。
わたしが初めて買った洋楽のCDが、彼女の5作目のアルバム『Vespertine』であることだけは確かだ。大学生の頃だった。
わたしが『Vespertine』という作品を知ったとき、まず心を奪われたのがジャケットデザインのうつくしさだった。静謐なモノクロームの世界で安らかに瞼を閉じ、横たわるBjörk。身を捩る瞬間を切り取ったかのように柔らかく曲げられた腕が顔の半分を隠し、そこへ滑り落ちたひかりが画面に陰影をもたらす。Björkの写真に重なるように描かれるのは白鳥の横顔で、それは眠る彼女の頬に嘴を撫でつけているようにも見える。白い描線で描かれた白鳥のフォルムに、ちょうどBjörkが身に纏う衣装の純白の毛並みが重なって、それはそのまま、わずかに広げた白鳥の翅となる…。
わたしは『Vespertine』を手に取ったとき、なぜだか赤ちゃんが眠る揺りかごのことを直感的に思い浮かべた。真っ白で、よごれがなくて、危険もない。柔らかいものに包まれて、必ずだれかに守ってもらえる。わずかに揺られて、囁くような歌を聴いて、ゆめと現実の区別もいらない。そういう空間のことをおもった。
『Vespertine』を購入する前から、収録曲のなかで知っているものはあった。「Pagan Poetry」がそうだ。邦題で、「異教の詩」。
この曲をいったいどのような言葉で表すべきなのか、正直わからない。わたしはこの曲を一番はじめに聴いたときの、鮮烈で、衝撃的で、おそろしくさえあるほど美しいと感じた、そのイメージを今も変わらず抱き続けている。わたしはBjörkの発音や発声の仕方がとてもすきなのだけれど、「Pagan Poetry」はそのことに気づかせてくれた曲でもあるようにおもう。吠えるように、あるいは哭くように、または怒りをぶち撒けるように、そして愛を捧げるように、Björkはひとつひとつのフレーズをうつくしく丁寧に歌い上げる。彼女の歌声ひとつで世界が構築されていくような、そんな感覚を覚えさせてくれる。
学生時代からもっともすきな曲、それはアルバムを上から順に数えて七番目の曲、「Aurora」だ。
わたしはこの曲を、間違いなく世界で一番うつくしい曲だと思っていた。幼いころから雪に親しんで育ったわたしにとって、雪に覆われた白銀の世界というものは、なによりも重要な心象風景だ。
「Aurora」はひとつ前のインスト曲「Frosti」とセットになっており、まずそちらを再生するとオルゴールの音色が流れる。それは踊るように軽やかで、そして柔らかなキャンドルの火がまぶたの奥に浮かび上がるような、やさしい音色だ。その旋律をとめてしまわぬよう、ゼンマイを巻く音も聴こえるような気がする。そうしてオルゴールの音に耳を傾けていると、新しく降り積もった真っ白な雪を踏みしめる音が聞こえてくる。だんだんとそれは近付いてきて、オルゴールの音は遠のいていく。はっとして目を開けると、わたしはいつしか銀世界に立っている。音もなく降る雪、静かな夜のカーテン、あわいひかり、雪靴を履いた足に、白樺の木。わたしはBjörkの歌に導かれるようにして、木々をかき分けながら前へと進む。女神の輝きを放つ、神々の纏うヴェールのようなオーロラのひかりを目にするために、わたしはひたすら森のなかを歩いていく…。
わたしはどんな曲でも、自分の心のなかにその曲にふさわしい映像を投影しながら聴くくせがあるのだが、「Aurora」はそのイメージがひときわ鮮明に映し出される。故郷で何度も、吹雪のなかを歩いたり、雪の降り積もった木々を見上げたりした記憶があるからだろう。曲の最後の詞である"Spark the sun off me…"は、曲のなかでも特にすきなところだ。それまで眼前に広がっていた白銀の世界を眩い太陽のひかりが覆い、わたしの肉体の隅々までをも満たしていく。太陽を輝かせて、わたしのために、というその言葉は、そのままわたし自身の祈りと重なって、静かな夜が明けてゆく。わたしはわたし自身のイメージのなかで、いまだにオーロラには出逢えていない。本物のオーロラを見たこともない。だからわたしは、いつか必ずBjörkの「Aurora」を聴きながらアイスランドの夜空をあおぎたい。そうすることで、わたしが胸に抱き続けるイメージを完璧なものにしたいとおもう。
学生時代から遠ざかったいま、ものすごくすきでいちばんリピートしている曲は日本盤ボーナストラックである「Generous Palmstroke」だ。こんなすばらしい曲を、はじめは日本盤だけの限定トラックにしていたなんて、と驚いてしまう。"感じるの、あなたの手がゆっくりと滑り降りる、わたしの肩を伝って…天上から…"。清廉なハープの音色とBjörkの切実な歌声が調和し、折り重なった重厚なコーラスが響き渡る。神の掌のうえに横たわって抱かれるひとりの女の姿がわたしには見える。
『Vespertine』はすべてを通してすばらしいの一言につきる。完璧な作品集だ。何度繰り返し聴いても飽きることがなく、聴くたびに肉体が生まれ変わるような、そんな気持ちにさえなる。Björkの紡ぐ生命を帯びたサウンドがそうさせるのだとおもう。
下記のリンクから観ることができる2001年、ロイヤル・オペラ・ハウスでのライブもすばらしい。セットリストにはわたしのすきな曲しかないし、演奏も、歌唱も、コンセプトもオペラハウスの内装もすべてが完璧。こんなにうつくしいライブはもう二度と観られないのだろうな、とおもうと、歯がゆいきもちになる。
もちろんこのアルバムのほかにも、Björkの曲ですきなものはたくさんあるし、それらすべてに抱いているイメージや言葉にして表現したいとおもう感慨がある。そのことについては、また別の記事でいつか書けたらいいなとおもう。
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